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『人生の親戚』

2004年06月19日

人生の親戚』(大江健三郎,1989年,新潮文庫)

大江健三郎の作品には,「お先真っ暗」な状況からどうやって抜け出すのか,あるいは,それとどうやって付き合っていくのか,といったモチーフがあります。私はかじっただけなので,偉そうなことは言えないんですけれど,初期の『他人の足』や『戦いの今日』で主題となっていた漠然とした閉塞感と,それに対する態度が,より一層収斂された感じがします。偉そうですね,すみません。

それはともかく,本作品。読後の感想を一言で表すなら,「ふぅ,ヤレヤレ……」といった感じでした。主題が重いので,読むときは腰を据える必要があります。以前,『個人的な体験』を読んだときも「ヤレヤレ……」な感じでしたけど,本作はそれにも増して「ヤレヤレ……」感が強いです。

どこら辺が「ヤレヤレ……」なのかというと,それはひとえにその結末でしょう。『個人的な体験』は,一応,ハッピーエンドの部類に分類されるんでしょうけれど,本作はなんとも……読者によってどちらにも分類できそうです。もっとも,このことが,逆に本作品の魅力を引き立てているように思うんですけどね。

もちろん,ハッピーかアンハッピーかを割り切らない(割り切れない)態度,というのは,本作品で十分に主張されているところでもあったりします。本書の後半で,「人生の親戚」(Parientes de la vida)の意味について,

生きてゆく上で苦難をともにするうち,まさに親戚のようになった真の友・仲間

という意味と,

どのような境遇にある者にもつきまとう,あまりありがたくない「人生の親戚」

といった意味の,2通りの解釈を示していますけど,あえて複数の解釈を持ち出すのは,結末をハッピーにするのか,そうでないのかといった判断を読者に委ねている感があります。

主題に話を戻しましょう。この話は,いわゆる「お先真っ暗」な状況をどうやって抜け出すか,あるいは,それとどのように付き合っていくのか,といったものでした。人が生きていく上で,人生に絶望する程の困難は,誰の身にも降りかかりうるわけで,そういった状況をどのように克服し,または受容していくのかという問題は,身近な例を取っても手に余るほどあるように思います。

本作には,このような状況に対する人間の態度が様々あります。キリスト教的に「原罪」あるいは「試み」として捉える態度,肉体的(性的)な快楽をもって克服(あるいは忌避)しようとする態度,センチメンタリズムに浸って不幸を美化しようとする態度,果ては「宇宙意思」のような絶対的な権威で説明しようとする態度等々……。これらのうち,どれが正しいとかいった問題とは別に,やはり,こういった問題は,どのような人間にも「人生の親戚」として備わざるをえないものであることは実感できました。

私の場合,幸いにも人生に絶望する程の困難というのは,これまで経験したことがありません。もちろん,年齢相応に,忘れたい事実や,苦しい状況というのはありますけどね……。けれど,もし自分が,主人公である「まり恵」のような状況に置かれたとき,彼女のようにVサインをして生涯を閉じることができるだろうか,と考えると,ちょっと自信がありません。

書店でみかけてなんとなしに買ってしまった本でしたけど,ここしばらく読んだ小説の中では会心の作品でした。結末がなんなのにもかかわらず,やけにすっきりした感じを受けるくらいでしたしね。精神状態に余裕のある方にお勧めします。

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