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言語と思惟

2004年08月23日

サイエンス: 言語は思考を決定するのか?」(スラッシュドット ジャパン

話題の元ネタは読んでいないんですけど,面白そうな話です。突き詰めると,カントやパスカル,デカルトなんかにまで遡っちゃうんですけどね。

「言語によって連続する世界を分断することで,物事を認識することができる」,という話は,かなりの昔から有力に唱えられている学説だったりします。もはや思想といってもいいんでしょうか。言語と思惟(認識)はどちらも学問の基礎ですから,両者の関係を明らかにすることは,様々な分野で根本的な課題になっていたりするようです。

あたしが専攻していた法学では,こういう話を直接議論することはなかったような気がしますけど……。

そういえば,その昔,池田清彦の『分類という思想』という本を読んだことがあったけれど,そこでの話を思い出しました。著者は構造主義生物学なる学問をやっておられる方のようです。読んだ当時はなんのこっちゃか分からなかったんですけど,今考えると,どうやらソシュールあたりの影響を受けた学問のようですね(詳しいことは知りませんけど)。

著書によると,

進化における極端な漸進説を採用すると,生物は究極的にはすべて連続的につながってしまい,古生物を含めた全生物を差異と同一性に従って分類することは不可能になってしまう。現生生物間に見られる差異と同一性は連続性の果てに結果した見てくれに過ぎなくなってしまう。

といった一節があります(p181)。分類すること,すなわち「事物を言語として規定すること」は,少なくとも学問に関する限り,「概念を規定したり,思考様式を規定すること」と無関係ではないようです。

一方,言語外とか言語と言語の隙間にあるモノを問題にする人の話を大学の講義で聴いたことがあります。わずかな記憶によると,バタイユなる人は,そこら辺を問題にして,自殺者志願者を募集したことがあるとかないとか……。

その点,先日,芥川賞の受賞作(『介護入門』)をネタにしましたけど,文学の本質ってのもここら辺(言語の間隙)にあるんじゃないかと思っていたりします。つまり,文学なるもんは,「今現在の言葉では言い表せないモノを,なんとか言葉として表現する(垣間見せる)作業」あるいは,「物事に対する(一般とは異なる)新しい見方を照らし出す作業」なんじゃないかと思うわけです。

あたしの場合,どんな小説でもそういう読み方をしちゃうので,舞台設定や人物設定のような「上っ面」は実はどうでもよくて,むしろ「それを通じてどんな世界観を提唱しているのか」というところを重視してしまいます。いくら「上っ面」でセンセーショナルなモノを用意しても,言っていることが一般人の共通認識だったり誰でも気付くことだったら,すぐ陳腐になりますしね。逆に,平凡な日常を舞台にしても非日常な物語が成立しうるように思うわけで,そういう物語にはとても魅力を感じるわけです……。

この秋は,ソシュールやウィトゲンシュタインあたりを,もう一度読み直してみようかと思ってしまいました。

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