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供儀とクリスマス

2004年12月25日

メリクリ。メリクリ。

巷はクリスマスのようですが,我が家の今晩のおかずはキムチ鍋でした。いつもと何ひとつ変わらない一日です。明日あたり,コンビニで売れ残った安売りケーキを見て,クリスマスを実感するのでしょう(そして,買って食べてしまうんでしょう)。

一方,巷では,クリスマスプレゼントやサンタさんや,ミレナリオとかルミナリエとかで盛り上がってるんでしょうね……。結構,結構。

けれど……けれどです。ちょっと生温いんじゃないでしょうか。言うまでもなく,クリスマスというのはお祭りですから,お祭りらしいことをしなくちゃいけません。お祭りといえば,必要なものがあるでしょう……そう,供儀です。

お祭りに供儀は付き物です。煌びやかなミレナリオが現れたり,荘厳な賛美歌が歌われることで,お祭りをお祭りたらしめているのと同様に,供儀も必要なんです。

もちろん,一般にクリスマスでは,クリスマスプレゼントとか七面鳥が供儀の「代わり」として使われるようです。けれど……けれどです。巷のクリスマスプレゼントや七面鳥では,お祭り気分を盛り上げるには不十分なんじゃないでしょうか。というのも,お祭りは「晴れの日」と「褻(け)の日」で言うなら,「晴れの日」なわけで,晴れの日にはいつもと違う「非日常」を体感しなくちゃいけないからです。

徹底的な供儀を行うことで,神様も降りてくるかもしれませんしね。たとえば,今日たまたま読み直していたバタイユ(「供儀的身体毀損とヴァン・ゴッホの切られた耳」『ドキュマン』(片山正樹訳,二見書房))では,オーストラリアの抜歯や,人体の一部を切除する供儀を紹介して,次のように評しています。

供儀というものは,その本質的局面から考えてみれば,一個人もしくは一集団に専属していたものを放擲することにほかならない。だからこそ,人間界で放擲されたあらゆるものがひとを当惑させる仕方で変質し,聖なる事象がその変質作用の終局に介入してくるわけである。

つまり,逆に考えると,「聖なる事象」が起きない限り,供儀としての役割は果たされないというわけです。

七面鳥を食って「うまかった」じゃダメなんです。ましてや,「クリプレはヴィトン」とかいっている向きは,プレゼントの意味を理解していないことになっているわけです。一方,プレゼントが「彼氏の耳」だったりしたら,ものすごいクリスマスプレゼントになります。あっという間に「聖なる世界」に突入ですから。

いや……ほんとにやれとはいいませんけどね。バタイユ読んでて思いついただけです。

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