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『法の力』

2005年01月07日

法の力』(ジャック・デリダ 著,堅田研一 訳,法政大学出版会,1999年)

『法の力』

大学の先輩にカントが好きな人がいました。さらに,これまた大大先輩にも,カントが大好きな人がいたのを覚えています。法学系の思想には,啓蒙思想に端を発する批判的合理主義なるものが少なからず影響しているので,かぶれる人がいるのも頷けるわけですけれど,飲み会の席で語られて参ってしまった思い出があります。

一方,一般教養で取った物理学の講義では,某O槻教授がこんなことを言っていました。

法学って自民党のオエライさんが作ったもんを研究するんでしょ?

おそらく,その言外には,「自民党の作ったそれのどこに『真理』(!)があるの?」という言葉があったんだと思います。たしかに法学には,そういう側面もあるように思います。

ただ,当時のあたしとしては(現在もそうですけど),カント好きな先輩のお話も,物理の先生のお話も,ちょっと当を得ていない感じがしていたのでした。前者は,「理性」というあまりにも牧歌的な平面に法(ないしは正義)を押し込めるようなものに思えたし,他方で後者は,「(暴)力」を前にしてあまりにも簡単に屈してしまう,無責任なニヒリズムに陥っているように思えたからです。

デリダは,ロゴス中心主義を批判しつつ,脱構築(de-construction)による解体を企てる,ポスト構造主義の論客です。(追記:先日亡くなったんだそうです。知りませんでした。)これまでは,文学や哲学に対する構造の解体を目論んできところ,本書では,それを法(正義)に対して適用することを試みます。脱構築が法に対してどのような態度をとるのか,あるいはとれないのか,その可能性を探る内容になっています。

と,えらそうに書いてみましたけど,実はあたし3回読んでもいまだに消化している感じがしません。そんなわけで,内容自体には深く踏み込まずに,あたしの理解している範囲内で感想を書き留めておくことにします。

えーと,せっかくデリダが法について話したということですから,法学に引きつけて感想を書いた方がいいんだと思います。つまり,法は,特に成文法国に顕著に見られるように,ロゴス的な構築物として把握することができます。よく「法律学の肝はリーガルマインドだ」なんて言われることがあるけれど,これも大袈裟な話ではなくて,大前提に小前提を当てはめて結論を出すという「論理作業」を前提としています(形式論理ではないけれど)。

ただ,法とその執行自体が,論理作業によってのみ営まれうること,すなわち,ロゴスによる法の運用を可能にするということは,本当にあり得るんでしょうか。これが,本書の(あるいは,少なくともあたしの)根本にある問題です。

デリダはこうした構築物を次々と「脱構築」することで,その権威を解体することを企てるわけですけれど,さらに問題となる点があります。それは,法が「脱構築可能」なモノだとして,そこには何が残るのか,逆に言えば「脱構築」すべき法(正義・権威付け)の構造はどのようになっているのか,ということです。

あたしは,これまで,基本的に「脱構築」と法学は相容れない領域で住み分けているもんなんだと思っていました。なぜなら,「脱構築」した後の法,すなわちロゴスとしての権威を失った法がたどる道は,ニーチェ的なニヒリズムに陥るしかないように思えたからです。もちろん,デリダに対するそういう批判は,あたしが思っているだけではなくて,「無責任な考え方」として実際に主張されていたところでもあったようです。

これに対して,デリダはこう言い切ります。

世に脱構築と呼ばれているものは,一部の人々が広めて得をするような混乱した見方からすれば,正義への倫理的=政治的=法的問いを前にして,また正義にかなうものと正義にかなわないものとの対立を前にして,ニヒリズム同然の棄権をすることに相当するということになるが,そんなことはまったくない。

本書では,正義と法・権利を見事なまでに分割します。法や権利というのは,正義にかなうようにつじつまを合わせた(コード化された)装置であるのに対して,正義は,測定不能で実在すらままならない(けれどそこにある)モノといった具合です。ここで「脱構築」するのは前者で,「脱構築」が生じるのは,アポリアをくぐり抜ける際に生じる「宙吊りの状態」(エポケー)だと主張します。アポリアを内面化して,ロゴスをずらすことが,正義にかなうことであり「脱構築」だということなんだそうです。

なんだか訳が分からなくなってきましたね。

もうちょっとあります。一方で,法・権利の「執行可能性」として控えている「暴力」については,そこに連続性を認めます。つまり,正当な暴力(例えば,正当防衛,警察機関による適法な暴力)と違法な暴力(殺人,窃盗,強姦等々)は連続していて峻別できないということです。

それでは,そこにある暴力に対して,「正当である」との保証(裏書き)を与えるものは,一体何なのでしょうか。言い換えると,これらの暴力が「正当である」ために備わっている権力の構造はどうなっているのかということです。これは,第2部「ベンヤミンの個人名」で論ぜられています。あたしは,ここら辺がいまだによく分かっていないので,この先はどうぞご自分でお読みください(←逃走)。

法律には,学問があって,一応学派のようなものがあります。例えば,「自転車を使ったけれど持ち主に気づかれないように元に戻しておいたとき,窃盗罪が成立するか」なんて問題に対して,色々と学説が分かれるわけです。ただ,ここに表れる決着は,物理学を初めとした,いわゆる理科系の学問のように,証明や実験を通じて客観的に正当性が担保されるもんじゃありません。法学の場合は,なんとも煮え切らない曖昧な決着を見る場合が少なくないんです(これは悪いところじゃなくてむしろ本質ですね)。

あたしが思うに,こういった議論は法の「周縁部」に関する議論で,コード化されている法律・権利と正義の境界線におけるエポケーであると言えそうです。つまり,解釈によってより良い(正義にかなう)法律を構築する作業がすなわち「脱構築」であり,正義が発する命令に基づく構造的な作用であると,あたしは理解しました。間違っている予感がしますけど……。

奇しくも,今年は日本国憲法が還暦を迎えるということで,あちこちで改憲論議が高まっているようです。小手先の議論も重要なんでしょうけれど,本質的な議論,すなわち「憲法を変えるということは暴力の構造を変えること」である,といった認識を持つことが,とりあえず重要なんじゃないかなぁ……と思った次第です。

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