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『グランド・フィナーレ』

2005年02月18日

グランド・フィナーレ』(阿部 和重,講談社,2005年)

『グランド・フィナーレ』

毎度のことですけれど,「文藝春秋」で読みました。ええ,お金無いんで。

感想から言うと,「もうそろそろコノ類はいいんじゃないのか?」といった感じ……。ここ数年,芥川賞受賞作では,アブノーマルな世界を描く作品が流行っているみたいですけれど,もうそろそろお腹一杯です。

本作品は,触れ込み(受賞報道)の段階で,幼女性愛者である主人公の話と聞かされてしまったので,そっちの話に引きずられてしまったようです。あたしが読む限り,「幼女性愛」なるキーワードは,本作品中それ程意味のあるテーマではないように思います。

つまり,主人公が「幼女性愛者」だったのは,たまたまそうだっただけの話で,そこに特別の必然性が感じられないということです。極端な話,主人公が食糞主義者でもいいし,切り裂きジャックのような殺人鬼でも,作品のテーマとして大きく的を外さない。むしろ,そう考えないとつじつまが合わない,そういう印象でした。

奇しくも,このことは,批判的な選考委員から指摘されていたようです。例えば,村上龍氏は本作品を推してはいるものの,以下の批評。

少女に対する偏愛という,いろいろな意味で危険なモチーフについて,作者が踏み込んで書いていないのが最大の不満だった。奈良の幼女殺害事件など社会的に深刻な問題が多発している中で,作家はそういったモチーフを扱うときには態度を明らかにしなくてはならない。少なくとも,危険なモチーフから逃げているとか,態度を曖昧にしているという疑いを読者に持たれてはいけない。それは作家としての敗北につながる。

また,なぜか毎度のことながら同じような意見になってしまう石原慎太郎氏は,次のような意見。

今回の作品も世間を騒がした忌まわしい事件との時間的相関性を外しても,物書きとしての内面的なニーズが一向に感じられない

村上氏や石原氏と意見が合うというのも,なんともいやはやだと思ってしまうわけですが……それは一方的に失礼ですね(ごめんなさい)。とにかく,この作品は,言いたいことをオブラートに隠しすぎたために,オブラートの味しかしなくなってしまった「何か」のようにしか読めないわけです。

時事的な問題はさておくにしても,幼児虐待にまつわるアレコレは,そうそう簡単に扱えるものではありません。少なくとも現実は,本作品に現れているモノよりも,ずっと陰惨な光景があるわけです。このテーマを扱うなら,真正面から実態を踏まえないと,作品全体がその必然性を失ってしまうとさえ思えます。

もっとも,テーマの扱い方については,新しい試みがあって読みがいのかけらを見つけた感じがしました。

それは,「アブノーマルな世界から見たノーマルな世界」という演出方法です。逆方向からの定点観測といえばいいでしょうか……。この点について,村上氏は「一人称で書くのは致命的に未熟だ」と酷評しているけれど,そうは思えません。むしろ,これまで「第三者(すなわち善良な市民)から見たアブノーマルな世界」によってしか,「アブノーマル」の程度を加速できなかったのに対して,逆説的に同じ演出を施すというのは,面白い試みなんじゃないでしょうか。実験が成功しているかどうかは分かりませんけど……。

ともあれ,全体からすると,「テーマの割に軽すぎる」という印象が際立ってしまいました。アマゾンへリンクを張っておきながら,こんなこと言うのもなんですけれど,あたしにとっては,購入して書棚のスペースを割いてまで読もうと思える作品ではありません。ほんと,散々な紹介文ですね……にんともかんとも。

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