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『聴衆の誕生 ポスト・モダン時代の音楽文化』

2005年09月27日

聴衆の誕生 ポスト・モダン時代の音楽文化』(渡辺裕,春秋社,2004年)

このまえジャズを聴きに行ったときの暇潰しに読んでみました。現在書店の書棚に並んでいるものは新装版とのことで(1989年初版),「七年後の『ポスト・モダン』」という補章がついています。

現在,多くのクラシック・コンサートでは,咳払いひとつもはばかられるような緊張した空気の中で,音楽だけに集中して耳を傾けなくてはならない,というお作法があります。それでもって,こういうお作法を心得ている人が,いわゆる「文化人」なわけで「ワカッテルヒト」ということにされているようです。クラシック以外のコンサートで,ここまで作法でがんじがらめにされている場はあまりありませんから,その意味でクラシック音楽の聴取環境は特殊だと言えそうです。

本書では,こういったお作法がどうやって生まれたのか,そしてクラシック音楽の聴取態度はどうあるべきなのか,といった話をポスト・モダンの視点から考えています。あたしはあまりクラシックを聴かないんですけれど,丁寧な解説のおかげで音楽の知識に難儀することもなく読めました。

これまで,(本書にいわゆる)「低俗音楽」と違って,「高級音楽」であるクラシックは文化的な歴史が長いから作法の原則論が確立しているんだと,なんとなく思っていました。ただ,本書によると,歴史の長さだけで説明するのは早計なんだそうで,19世紀の啓蒙思想をくぐったかどうかが,作法を考える上でも重要なんだそうです。

つまり,19世紀頃は芸術に精神性が観念されはじめるわけですけれど,音楽に限っては他の分野(絵画,文学等々)と比較して精神性が希薄だとされていたのでした。そこで,音楽に精神性を持たせるべく,「真面目派」は音楽を「低俗音楽」と「高級音楽」に二分して,前者を切り捨てる戦略をとったというわけ。

本書では,こうした二分法が,現在音楽の大衆化に伴なって動揺していると指摘します。そして現在,これまで「真面目派」が切り捨ててきた音楽の可能性を「復権」させるべきだ,として「軽やかな聴取」といった聴取態度を提唱しています。個人的に,19世紀的な聴取態度のすべてがイカンとは思っていなくて,(補章で取り上げている通り)ことさら目の敵にすることもないんじゃないかと思うんですけどね。ただ,「軽やかな聴取」という聴取態度は,クラシック音楽の可能性を広げる上でとても有意義だと思います。

考えてみると,ピュアなモノとそうでないモノを区別する二分法から,一元的な価値序列を定立する考え方というのは,音楽に限った話じゃなかったりします。「あーゆーのはホンモノじゃない」なんて言っている向きがいる分野は,大抵原理的な考え方が支配している分野だったりして……。こうした考え方は,一定の物理的な制限(音楽では経済的・身分的な制限)の下では十分に権威付けができるものの,大衆レベル,特に消費社会においては,原理そのものが空洞化して「空手形」になる可能性をはらんでいるようです。ホンモノ志向の「真面目派」が,作法から外れた態度を「邪道」認定するところも音楽に限った話じゃなかったりして。

音楽が大衆化して「差異」しか残らなくなったとき,それを「聴く態度」として重要なのは,「『自分は』どう聴くのか」そして「『他人と』どう違うのか」といったことなんじゃないかと思います。「19世紀的な聴取態度」であれ「軽やかな聴取」であれ,それぞれを内面化して,数ある聴取態度のひとつとして位置付けられたらいいのかもしれません。

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