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取り巻きで布教するという話

2005年12月06日

先日,友人と「『ジャズ』は好きだけど『ジャズ好き』には馴染めない」とか「『コンピュータ』は好きだけど『コンピュータ好き』はどうなんだろう」とかいうことってあるよねー……といった話をしました。つまるところ,「取り巻きが悪い」といった話。

友人もあたしも「ジャズ好き」で「コンピュータ好き」なので,取り巻きの面々を揶揄したわけじゃありません(自己卑下したわけでもない)。そうではなくて,もっと一般的に「取り巻き」に馴染めないことが原因で,もともと興味があるはずの「取り巻かれているモノ」(「取り巻かれ」ということにします)にも馴染めないことってのは,案外多いんじゃないか……ってな話でした。

もちろんこの話,「取り巻きが良い」こともあるわけで,「取り巻き」を見て「取り巻かれ」自体も好きになるってなこともあるはずです。

さて,話はもう少し進んで,こういった「取り巻き」を見て「取り巻かれ」自体を評価する場合ってのは,分野によって異なる傾向があるんじゃないか,といった話になりました。まとめるとこんな感じ。

  • 技術のように人の受け取り方が(比較的)一義的なものよりも,思想や芸術のように受け取り方が多義的な分野についてその傾向が強い
  • 一般的な分野よりもニッチな分野の方がその傾向が強い

まぁ,茶飲み話なので十分に裏をとってるわけじゃないんですけどね。直感的にはなんとなく頷けるんじゃないでしょうか。

取り巻きを良いと判断するか悪いと判断するかは,判断する人が馴染めるかどうかの問題ですから,客観的に「良い取り巻き」と「悪い取り巻き」があるわけじゃないんだと思います。つまり,良いか悪いかは人によって評価が異なるということ。けれど,もし上の傾向があたっているとするなら,評価が多義的でニッチな分野を扱う「取り巻き」は,良いか悪いかといった評価は別にしても,対外的に重要な役回りを演じているように思えます。

言い換えるなら,評価が多義的でニッチな「取り巻かれ」を,これから新しく扱おうと思っている向きは,「取り巻かれ」自体よりも,むしろ「取り巻き」を見ていると……。あくまでも,上の傾向があたっていたらの話ですけど。

そうして考えてみると,あるニッチな分野を外の人に布教するときは,「取り巻かれ」そのものの良さをアピールするよりも,布教する本人(あるいはそのコミュニティ)を好印象に保つ方が戦略として有効な感じがします。帰属意識を逆手にとるというか,イメージ戦略というか,ともかくそんな感じ。

もちろん,布教する必要が無ければ,変にこんなことを意識する必要もないわけですけど。

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