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箱男のリアリティに見る透明な視線

2005年12月18日

長らく積み本になっていた『新現実 Vol.3』をせくせくと読んでいたところ,「おたくのロマンティシズムと転向 ーー 『視線化する私』の暴力の行方」(ササキバラ・ゴウ,『新現実』 Vol.3,p145)にどこかで聞いたような話がありました。自分でもまだまとまっていないので,メモということで……。

「視線」を使う人間は、「見る」人間である。視線として存在する私は、見られることなく、ただ見る。そうして他人から見られることのない「透明な存在」になっていく。(インターネット上では完全な透明にはならないが、ここではその問題には立ち入らない)

考えてみるとそのような傾向は、インターネットだけのことではない。たとえばそれは、八〇年代以降のまんがやアニメなどの表現でも顕著になったことであった。(snip)

そのようにして世界を見つめる視線は、「認識し、理解する私」という優越的な立場を自分に与える。視線となることで私はどんどん透明化し、あらゆるものに対して超越的な「最後のメタレベル」に立つことを可能にする。そのようにして私は、世界の頂点に立つ認識者となることが可能となる。

「おたくのロマンティシズムと転向 ーー 『視線化する私』の暴力の行方」(ササキバラ・ゴウ,『新現実』 Vol.3,pp146-147)

考えてみると,この言説,あたしの中では『箱男』(安部公房,新潮文庫)のモチーフと重なります。早速文庫本を読み直したところ,末尾にあった平岡篤頼氏の「解説」が簡明で面白かったので,紹介しておきます。

見られずに見ること。誰のなかにもいくらかはあるこの欲求が昂じて、この小説の主人公は(snip)、ついに箱男となったのである。(snip)

箱男とは果敢にいっさいの帰属を捨て、一方的にコミュニケーションを断ち切り、ひとりで生きることを選んだ人種なのだ。そんな大それた企てが容易で安穏であるわけがない。食料の入手が困難になるといった、物質的な困難だけを言っているのではない。市民社会の側から見て、許しがたい越権行為であるから、なんらかの迫害の手が及ぶことは避けられない。(snip)

箱男となることによって、覗き屋は認識者へと変貌するのである。箱男となることによって、彼ははじめて自由な「ぼく」となる。

「解説」(平岡篤頼,『箱男』,新潮文庫,p213)

「迫害云々」は措いておくとして,「一方的に認識するだけで決して記述される(認識される)ことのない主体」ってところと,「認識者になることによって自由な主体になる」ってところががミソです。ササキバラ氏の文章を読んでから『箱男』読み返してみると,わりとすんなりと意味が通っちゃうもんで,もしかしたらササキバラ氏の文脈と箱男ってのは相性がいいのかもしれません。

(注:念のために言っておくと,これはあたしのモチーフと重なるというだけの話で,ササキバラ氏と安部氏に実際上の関係があるぜ云々といった話じゃありません(よく知らないけれど,多分無関係でしょう)。)

というわけで,『箱男』の話をもう少し……。

『箱男』は若い時分から折に触れて読んでいるんですけど,何度読んでも肩透かしを食らっている感があって,正直よく分かっていません。どこら辺が分かりにくいのかというと,作中の箱男と箱男が「箱の中」に書いた物語が可換的なところです。「本当の箱男」がどこにいるのか,分からないんですね(本当にいるのかすらも分からない)。

つまり,そこに感じるのは,「箱男としてのリアリティ」はどんなもんなんだい,ってな話です。

これはあたしの読み方なんですけれど,もし箱男が証拠物件上に表われているとしたら,それは「記述された」箱男なわけで,贋箱男になってしまいます。箱男が箱男であるためには,他から記述されてはいけないからです。そうだとすると,箱男は「存在するかもしれないし存在しないかもしれない」,といった曖昧な場所を立ち位置にしているように思えます。もう少し具体的に言うなら,「匿名の世界」が立ち位置だと言ってもいいかもしれません。

一方で,作品は「箱男が書いた(とされる)ノート」という形式で「書かれて」います。箱男の存在を推知しうる証拠物件は,唯一これだけ。当然のことながら証拠物件は「見られる」ためにあるわけで,「見る主体」ではありません。作中,《書いているぼくと 書かれているぼくとの不機嫌な関係をめぐって》以降では,ストーリーが急展開して読み手は大いに翻弄されるわけですけれど,最後になって感じるのが,読者自身が箱男だということだったりします。

そこに見える「リアリティ」はまぎれもなく読者の「視線」なわけで,実際に箱男が存在するのか,といった話は,実のところどうでもいいのかもしれません。

そこで,これをササキバラ氏の文章に引き付けて考えるとすると,ササキバラ氏にいわゆる「自閉する私」というのは,箱男的な立ち位置だと言えそうです。

「視線化する私」という欲望は、おたく的な問題にとどまらずに、現在の日本に広く作用している。

自らの暴力性を忘却し、他者を「傷つかないキャラクター」として扱い、自らは超越的な認識者として自閉していくこと。そのようなありさまは、あちこちに見ることができる。

たとえば、加害者であった自分を忘れて、被害者という立場に自閉することで、他者を加害者として一方的に責め立てる時、その他者が傷つく存在であることは忘れ去られる。そのようにして、自身の優越性の中に自閉して生きていく様は、まさしく現在の日本の空気そのものなのだ。

「おたくのロマンティシズムと転向 ーー 『視線化する私』の暴力の行方」(ササキバラ・ゴウ,『新現実』 Vol.3,p150)

現代人は一昔前と比べるとずいぶんと目が良くなりました。そして,その強力な視線がある限り,あらゆる主体を優越性の中に客体化して相対化してしまうことを,食い止めることはできないし,それが「リアル」である限り,あり方のひとつとして認めざるを得ないとも思えます。もっとも,そうした時に,自閉した箱どうしが他者とどのように折合いをつけるのかといった点については,もう少し考えてみたいと思っています。

ぼくは自分の醜さをよく心得ている。ぬけぬけと他人の前で裸をさらけ出すほど、あつかましくはない。もっとも、醜いのはなにもぼくだけではなく、人間の九十九パーセントまでが出来損ないなのだ。(snip)それでも人々が、なんとか他人の視線に耐えて生きていけるのは、人間の眼の不正確さと、錯覚に期待するからなのだ。(snip)誰だって、見られるよりは、見たいのだ。ラジオやテレビなどという覗き道具が、際限もなく売れつづけているのも、人類の九十九パーセントが、自分の醜さを自覚していることのいい証拠だろう。ぼくがすすんで近視眼になり、ストリップ小屋に通いつめ、写真家に弟子入りし……そして、そこから箱男までは、ごく自然な一と跨ぎにすぎなかった。

《書いているぼくと 書かれているぼくとの不機嫌な関係をめぐって》(安部公房,『箱男』,新潮文庫,p104)

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