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ナンシー関氏のコラムに見る「芸のある毒」

2006年03月04日

ここしばらくナンシー関氏のコラムを読んでいて,さんざん笑わせてもらっていました。読んでいたのは次の2冊。ナンシー氏というと,テレビ番組や芸能界のアレコレにまつわるコラムが有名です。

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ナンシー氏の文章は毒に芸があって好きなんですけれど,この頃はなかなかこういったコラムを読む機会がない気がします。たしかに,筆者みずから毒舌を自称するコラムなんかは,これまでよりも増えている気がするし,こういった文章全般を見てみると,むしろ「毒舌芸」みたいなもんが定式化しているところはあります。けれど,ただ単に悪い感想を書けば「芸のある毒」になるかといえば,そういうわけでもないわけで,もっと別の要素があるんじゃないかと思います。

それじゃ,「芸のある毒」ってのはどんなものなのか考えてみたんですけれど,これって「消費のしかた」に芸がある,ってことのように思えます。もう少し詳しく言えば,需要に値するだけの「消費のしかた」を供給している,といったところです。

消費パターンに「正統派」があった一昔前のように,評価する対象が既存の尺度に収まっているかどうかを「判断」することが「価値判断」と同義だった頃の批評ってのは,ある意味気楽だったのかもしれません。「良い批評」を担保するのに必要なのは「尺度」にまつわる権威と権力だけですから。

その一方で,この頃は,テレビ番組にしても映画にしても音楽にしても,それぞれが好きなように接すればいいわけで,現に好きなように消費しています。つまるところ「消費のしかた」が多様化しているわけで(アリガチな表現だけど),これらの全てを捕捉して統一的に評価する,なんてことはほとんど無謀にさえ思えます。

で,これを読者の側からみるとすると,読者の関心は,「毒をかぶっている批評の対象」(消費の対象)よりも,むしろ「筆者の毒の吐きっぷり」(消費のしかた)に移ってくると言えそうです。「対象が毒をかぶるに値するか」(対象がその批評によって批評されてしかるべきものなのか)なんて話は,消費のしかたによってグルグル変わってしまうことから,そんな話にいちいち付き合っていられないからです。というわけで,「毒」に芸を持たせるってのは,批評する対象がどうのこうのというよりは,「筆者がその対象をどのように消費したのか」ということをどううまく伝えるのか,という点にあるんじゃないか,と思うわけです(ややこしい表現だな)。

正統派からしてみたら,毒舌芸をはじめとしたこうした批評は,場外乱闘みたいなもんなんでしょうけれど,「正統派のリング」なるものがほんとうにあるのかおぼつかない状況では,こうしたマッチメイクも「アリ」なのかもしれません。

ナンシー氏のコラムに戻ります。先に,ナンシー氏のコラムに見える芸は,ただの毒舌芸とはどこか違う,と書いたけれども,具体的にはどこが違うんでしょう。正統な尺度に則っていない,という点では,「毒舌芸」もナンシー氏のコラムも同じく場外乱闘です。

この点で,あたしが前々から思っているのは,ナンシー氏の文章は枠組みや視点を設定するのがとてもうまいということでした。具体的には,視聴者サイドと提供サイド(スポンサーの意味ではなく番組や出演者をひっくるめた意味)の需給関係に視点を当てることが多い気がします。

例えば,こんな感じ。引退宣言したはずの大橋巨泉が「なんでも鑑定団」に出演して大物ぶりをアピールしている,といった話です。

ここで巨泉は言うのである。「俺がプロデューサにでもひとこと言えば、即司会者の座を取って代わることができる。だから紳助はビビっている」と。これまでにない、かなり強引な巨泉像の改竄である。現実問題として、紳助と巨泉ではもはや紳助だろう。

大橋巨泉は本当に芸能界を引退したのだろうか。今の状態は、もしかしたら逆に芸能人としての寿命を延ばすための、巧妙な作戦ではないかと思えてきた。露出する量を少なくすることは、巨泉の持つ「つまらなさ」も「嫌な感じ」も「いらない」も少量しか感じさせないということでもある。珍しさは、そのままありがたみと勘違いされやすい。(snip)一年じゅう「閉店セール」をしている家具屋に似てないか?

提供サイドの大橋巨泉と視聴者サイドにいる筆者を基本的に分けて書いています。もちろん,こうした需給の視点を作っているのは,ナンシー氏なわけで,提供サイドにいる大橋巨泉が本当のところどうなのかというのは,分かりません。けれど,ここで大橋巨泉の本当の思惑なるものは,とりあえずどうでもよくなっているわけで,読者の関心はもっぱらナンシー氏の「消費のしかた」になっています。

んでもって,ナンシー氏の文章が芸として成立するのは,こうした需給関係を踏まえた上で設定した枠組みや視点(ひいては筆者自身の消費のしかた)が,とても安定していて,しかも読者の需要とうまく噛み合っているからじゃないかと思うわけです。つまるところ,ナンシー氏は「需要者」(テレビの消費者)であるのと同時に「供給者」(コラムの筆者・視点の設定者)でもあるわけで,需要(コラムの読者)に見合った「消費のしかた」をうまく供給している,ってところに芸があると思うわけです。

こうした二重の需給関係を念頭において枠組みや視点を設定するってのは,意外と難しくて,ありきたりな視点だったら見向きもされないし(言った気になる),変にひねて設定すると読者がついていけません(自己満足)。また,設定した視点が矛盾だらけのどうしようもないハリボテだったら,読者は安心して話に入っていくこともできません(空中分解)。

んでもって,思うわけです。最近,枠組みを丁寧にこしらえているコラムを読まなくなったなぁ,と。この頃本屋では,ナンシー氏の文庫も隅に追いやられている感じがします。

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