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オタクの実存と「萌え」の話

2006年06月04日

『〈美少女〉の現代史――「萌え」とキャラクター』をつらつらと読了。半年くらい前に「qune: 箱男のリアリティに見る透明な視線」というエントリを書いたんですけれど,ササキバラ氏にいわゆる「透明な視線」は,やはり『箱男』的なモチーフがあったんだと確認しました。個人的には勘があたって嬉しいんですけれど,半年前にエントリを読んだ方は,「何を今さら」な感想があったかも……。

〈美少女〉の現代史――「萌え」とキャラクター
ササキバラ ゴウ
講談社 (2004/05/20)
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一応,該当箇所を引用しておきます。

自分が他人から「見られない」ということは、自分が「透明な存在」になっていくことにほかなりません。

見るという自意識は存在しても、他人からは見られない。そういうとき、たとえば安部公房の「箱男」という小説のことが思い出されます。

(snip)

まんがの中では,八〇年代以降のエロまんがに、そのような感覚が明確に表われています。これらの作品には、多くの美少女が登場し、性行為のシーンも頻繁に描かれますが、そのときなぜか男性の姿はあまり描かれません。このことは大塚英志が『〈まんが〉の構造』で指摘していますが、なぜかそういう場面では、男性キャラクターは突如輪郭線だけの透明な存在になったり、シルエットとなったりして、匿名化されます。(snip)

これは、行為の主体としての男の姿を見たくない、という心理だともいえますが、それ以上に、その場面をできるだけ純粋に「視線の対象物」として描きたい、という要求が働いているように思われます。

〈美少女〉の現代史――「萌え」とキャラクター』(ササキバラ ゴウ,講談社現代新書,2004年,p178)

視線化された(男性であるオタクの)実存としての〈美少女〉というのは,面白い指摘だと思いました。もっとも,その実存の元,つまりオタク的な実存がどうやって生まれたのか,といった核心については,今一つはっきりしないところがあります。

おそらく,その理由には,現実における受け手の態度が,大部分「ブーム」という言葉で説明されていて,代わりにその態度を映像表現の中に求めているからだと思います。本来,消費者として受動的だとされる「受け手」の態度は,供給者が設定する「映像表現」と関わりがありませんから,供給者が設定した「映像表現」から(現実における)オタクの実存を求めるのには無理がある,とも言えそうです。もしそうだとしたら,「オタク」なんてのはもともといなくて,同じ〈美少女〉について,めいめいが好きなやり方で勝手な萌え方をしている,つまり,「オタク」としての「萌え」なんてもんはただの幻想だ,ということになってしまいそうです。ここら辺については,「萌え」について度々議論(!)が起きるのを見ても分かるように,そうかもしれないし,そうじゃないかもしれません。あたしもよく分かりません。

ただ,オタクの文脈としては,「需要が供給を作る」という側面があるわけで,供給側が一方的に「萌え」なキャラを供給していることはありません。また,本書のようにオタクを本当に「箱男」に引き付けるとしたら,現実のオタクなんてものは「透明」であるがゆえに記述できません(見られることがない)。その意味で考えると,オタクの実存とその誕生を,「映像表現」(オタクによって見られているもの)の中に求める本書は,論理的に整合しているはずです(多分)。

で,本書は結局のところ,どういう話なのかというと,あたしは「第二世代オタク・クロニクル」として読みました。つまるところ,オタクの実存といっても,これは「第二世代オタク」に限定されているということです。というのも,取り上げている作品からしても思潮からしても,ここら辺のメンタリティを理解できるのは,せいぜい自分の世代がギリギリなんじゃないかと思うからです。第二世代オタクというのは,東浩紀氏の分類で,ちょうど団塊ジュニアの世代にあたります。

あたしはというと,1970年代後半の生まれでポスト団塊ジュニアに当たりますから,『ガンダム』にしても『うる星』にしても,「お兄さんの趣味」として受け止めていたところがあります。また,80年代の『クリィミーマミ』や『ダーティペア』といった作品についても,思春期前の子供として見ていたわけで,本書に言うようなオタク的な(セクシャリティを伴なった)文脈で消費していたとは言えないはずです。

「世代的に」とまでは言わないものの,自分にとってセクシャリティを伴なった漫画はというと,『らんま1/2』であり『3x3 EYES』であり,『電影少女』であり……といったところでした。けれど,本書では,『電影少女』が少しだけ取り上げられているものの,あくまでも「第二世代オタク」文脈の「結果」として語られています。そんなもんで,そうした文脈を伴なっている「第二世代オタク」の実存と,これらの作品を「出発点」にしてセクシャリティ的な文脈を得たあたし世代の実存とはえらく違うんじゃないか,と思うわけです。第三世代に至っては,「何言っているのか分からない」ということにもなるんじゃないかと……。

と,そんなわけで,本書の「萌え」というのは,「第二世代的な萌え」であって,「オタク全般」(少なくともあたし)のそれかというとちょっと違う,と感じてしまいます。もしかしたら,オタクの文脈が世代的に断絶している以上,オタク全般に共通する「萌え」なんてもんはないんじゃないかとすら思えてきます。

ともあれ,本書にいわゆる「視線としての私」が作りだす〈美少女〉という点については,その中身(実存)がどうあれ,とても示唆に富んでいます。ただ,本書では〈美少女〉と〈パロディ〉はバランスを取っていないといけない,ということですけれど,あたしゃ今どきのオタクは〈パロディ〉とは別の仕方で,うまくバランスを取っているんじゃないかと思っていたりして。というか,そう思いたいです。

【追記】

そういえば,個人的な話をすると,あたしゃ中学の頃,「男子3名以外全員女子」という悪夢のような美術部にいたもんで(※悪夢だったのです),女性的なオタク言説に毎日晒されていたのでした。そうして考えると,本書にいわゆる「傷付ける性」みたいな話も,今一つピンと来ない……というか「ナイーブすぎるだろ」と思えてしまいます。あの時は,女性的なオタク趣味に自分の趣味が圧倒されていて,むしろ「傷付けられていた」といった方が正しいような……。

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