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「終わり」で満たされた日常を生きろ

2006年06月21日

『終わりなき日常を生きろ』を久々に読みなおしてグッタリ……。一応,思ったことをば。

終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル
宮台 真司
筑摩書房 (1998/03)
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10年くらい前にずいぶん流行った本なので,いまさらここで筋を追う必要もありませんね。もう「終わり」なんかやってこない。終わってしまった日常(ユートピア==ディストピア)を生きる術として,ブルセラ的でマッタリな戦略とオウムのように「終わり」をでっち上げる戦略があるね,という話。

本書で何が「終わった」といっているのかというと,抽象的には「大きな物語」ということになるんだと思います。けれど,この感覚は,おそらく本書でブルセラ世代として描かれているあたし世代(オウムの頃は高校生でした)以降の人間には,実感しにくいんじゃないでしょうか。科学に対する進歩的な信頼や○○主義とかいった話は,ネタとしては語られるものの,本気でそこにあるとは思っていないし,「流行り廃りのヒトコマ」程度の認識だったりします。そして,宮台氏はこの点について極めて自覚的です。

テレクラやブルセラショップやデートクラブの周辺に集うたくさんの女の子たちを取材してきているうちに、私はブルセラっ子たちに、ある種の「すがすがしさ」を感じるようになった。(中略)「何かを諦める」ことと「諦めるものを初めから知らない」こととの間に横たわる大きな差異にだんだんと気がつくにつれて、「何も諦めていない」彼女たちに、親しみを感じるようになってきのだ。(中略)

失われ行く世代の「幻想」の質が、いまこそ問われるべきなのだ。私たち世代の女性たちがやっとのことで断念し、後続する世代によって再び担われることのなかった「幻想」の形が、いろいろな角度から見直されるべきときに来ている。

『終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル』(宮台真司,筑摩書房,1998年,pp136)

「大きな物語」が終わるためには,終わるべき「大きな物語」がそこになくちゃいけないわけで,「大きな物語」が「ある」こととそれが「終わる」ことは,ちょうどコインの裏表の関係にあるんだと思います。そんなわけで,ハナっからそんなものが無いと思っている向き,あるいは「ある」と思っていてもビル・ゲイツが慈善家になるような「終わり」と同程度だと思っている向きにとっては,とりたてて「大きな物語」(とされているモノ)が終わること「だけ」を特別視してテンヤワンヤする必要は無い,と。その意味で,「終わり」が来ない喪失感や,「終わり」を持たない世代に対する「すがすがしさ」の感覚は,宮台氏世代に特有のものなのかもしれません(※最近世代の話に解消することが多い気がするけれど……)。

考えてもみると,日常なんてもんは,むしろ「『終わり』で満たされている」んじゃないか,と思ったりします。「終わり」が来ないように見えるのは,あまりにも多くのモノが次から次へと「終わっていく」からなんじゃないか,と……。今現在,その場にあるモノ(流行,良識,常識,恋愛,社会的地位,権威,権力,技術等々)すら,「終わり」を内在させている,といった具合。そうしてみると,「日常が終わらない」というのは,あまりにも多くのものが「終わっていくこと」が「終わらない」といった話なんじゃないかと思えます。

「大きな物語」の「終わり」はもうこない。けれど,日常は「終わり」で満たされている,といったところです。

いずれにしても,こうした無常を地で行くようなことは,(世代を問わず)普通だったら耐えられないはずです。登っている梯子の下に,十中八九それを外そうとする人なりなんなりがいるとしたら,簡単には登れませんから。そうしたときに考えられる戦略が,絶対に外されない梯子(真理!)を探し続けるか,外されることを前提にして,痛くない受身のとりかたや登り方を探すか,というコトなんじゃないかと思います。本書の言い回しを使えば,こんな感じ。

「終わらない日常」を生きるとは、スッキリしない世界を生きることだ。何が良いのか悪いのか自明でない世界を生きることだ。私たちが今日生きているのは、すべてが条件次第・文脈次第で評価されるしかないような複雑なシステムである。(snip)

「終わらない日常」を生きる知恵とは、そういう複雑なシステムで、「相対的に」自分に損にならないように、あるいは「相対的に」他人に危害を加えないように生きるには、どうしたらいいか、という「共生のための知恵」のことである。

『終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル』(宮台真司,筑摩書房,1998年,pp185-186)

ネット・書籍を問わず,巷の話を見ていると,「終わりバージン」みたいなものを感じることがたまにあります。「お約束」に守られていて,「終わり」を前提にして相対化されるとアタフタしちゃうような話。日常に生起するさまざまな「終わり」を軽やかに受け流していくには,例えば「コミュニケーション能力」のような「技術」が必要なんでしょうけれど,誰しもがそれを身に付けているわけじゃない(自分も含めて)というのが,さしあたり現在でも問題になっていることのようです。

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