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雨やまぬ昼下がりに『アトモスフィア』読んでおなか痛い

2006年06月29日

『アトモスフィア』をつらつらと読みました。あたしの場合,お話の類は人によっていろいろな読み方があるから,「これは自分の読み方で,読者の方々が同意する必要はない」みたいな前置きをいちいちしているんですけれど,こういう文句は本書のためにあるなぁ,と思いました。

アトモスフィア (2)
アトモスフィア (2)
posted with amazlet on 06.06.29
西島 大介
早川書房 (2006/04)

本作は,「あらかじめすべてを赦している」女の子と,その分身,それに世界とその分身の話です。と言ってもよく分かりませんね。テーマが重い(と思った)割に,ストーリーが簡潔なもんで,筋を追うとネタバレになる可能性が高いんです。そんなもんで,ここでは読んだ方を対象にして思ったことをば。

先述のとおり,本作の女の子は,「あかじめすべてを赦している」子なんですけれど,一般的に「赦す」ってのは,「あなたのことを認識しましたよ」,というニュアンスが含まれていると思うんです。というのも,「赦す」ためには,その人なりその出来事なりを内面化して(自分の中のある位置にそれを位置付けて),はじめてできると思うからです。つまり,ある出来事を赦すには,必ず自分の中にある既存の価値と折衝させて,適切な場所に位置付けないといけないと思うんですね。言葉を変えれば,その出来事について,対象として認識できている(超越論的な視点を持っている,とも言えるのかな)といえばいいでしょうか。

んでもって,そうだとするなら,「すべてを赦す」ということは,「世界の全てを認識している」ことなわけで,そんなことができるのは普通神様くらいなんじゃないかと思ったりします。もし,生身の人間にそれができるとするなら,内面化したと思い込んでいるだけか(知ったかぶり),赦す対象そのもの(世界)を諦めているか(シニズム)のどちらかなんじゃないか,と。

一方で,本作の女の子は,「ふざけんな」と言わないことで,あらゆるものごとを「赦し」ます。じゃあ,これは知ったかぶりやシニズムなんでしょうか。あたしゃ,ちょっと違う感じがします。というのも,「『ふざけんな』と言わない」ということは,「そういうのもアリだ」(2巻 p148)と一応肯定することなわけで,知ったかぶりやシニズムとは別のやり方のように思えるからです。つまり,「お前さんはお前さんでよろしくやりなさい。あたしはあたしでよろしくやってますから」といった具合に,世界認識の多重性というか多様性というか,そういったものを認めることのように思えるというわけです。

そうした読み方からしてみると,本書に出てくる「本人」なり「分身」なりは,おそらく一定の立ち位置に固定してしまった(排他的な認識を持った),「わたし」なり「あなた」ということになるんだと思います。女の子は世界認識(分身)の無限増殖を終わらせることで,そうした枠組みとは別の次元に移行するわけですけれど,あたしの読み方からすると,ここら辺が読みどころなんじゃないかと思います。

……と,ここまで書いて読み返してみると,本書を読んでない方にはなんのこっちゃか分からない文章になっていますね……。読んだ人にも分からないことになってそう……。つまるところ,あたしの読み方は,「あんたが世界について,あれこれ考えたって,考えなくたって,当の世界はちゃんと回るんですよ」といったいったことだったりします。これを思考停止や自己否定あるいは孤独な個人主義といったモノとして捉えるのか,多様な世界のあり方に目を向けるモノとして捉えるのかは,読者さんに任されているのかもしれません。女の子の自殺が未遂に終わるところを見ると,後者なのかもしれませんが。ともあれ,あまり真剣に考えるとおなかが痛くなるので,ほどほどに読んで書棚にしまいこむことにしますです。

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