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涼宮ハルヒを見終わって「カウンター」がどうとかこうとか

2006年07月10日

猫も杓子も『涼宮ハルヒ』ということで,録り溜めていたのを見終わりました(一部録り損なったんですが)。難しげなこと抜きで楽しかったです。

涼宮ハルヒの憂鬱 1 通常版
角川エンタテインメント (2006/07/28)

「難しげなこと」というのは,例えば,「小学館::ガガガ文庫:ガガガトーク: 東浩紀 - イシイジロウ(2)」みたいな話。

佐藤:本来ならカウンターであるべきものが、メインになってしまっているってことですよね。それはアニメにも言えるんですよ。『エウレカセブン』とか『BLOOD+』は、カウンターだったはずだし、『ガンダムSEED』もガンダムに対するカウンターだったはずなのに、今やそれがメインのように扱われてしまっている… カウンター的な作品がきちんとカウンターとして成立してないと、シーンは脆弱化しちゃう。

イシイ:カウンターを取られているのに、わからない。メタなのに、それに気づかず真正面から受け止めてしまうユーザーが多すぎるのも原因かもしれない。

東:「涼宮ハルヒ」シリーズは、ライトノベルの約束事自体を対象化してつくった小説。あれをわかるためには、ライトノベルの感覚がわかっていなくてはいけない。それを読んで、そのまんま影響を受けた若い子が登場してくると、まずいことになると思います。

小学館::ガガガ文庫:ガガガトーク: 東浩紀 - イシイジロウ(2)

あたしゃボーイ・ミーツ・ガールものには弱いと自覚しているもんで,『エウレカセブン』も例外なく好きだったりします。そういうのに「カウンター」もへったくれもないんですね。弱いもんには弱い。『涼宮ハルヒ』は,ボーイ・ミーツ・ガールに加えて,例のモラトリアム感もあるということで,萌え云々やツンデレ云々を除いても,グシグシとツボを突いてくれました。

それにしても,ここら辺界隈では,引用本文にあるような「縮小再生産」だとか「○○に対するカウンター」だとかいった話が無くなることはないんだろうな,と思ったりします。『エウレカ』がカウンターであるべきだとして,その「べき」は誰の価値判断なんだ?とも思ったりもするし。で,最終的には『テヅカ・イズ・デッド』に落ち着く,と。

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ
伊藤 剛
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オタクの話かどうかはさておくとしても,アニメ界隈の論評を見ると,一方で新しいモノを求めておきながら,他方でえらく保守的なところがある,と思うことがあります。んでもって,引用にあるような「カウンターであることを踏まえろ」みたいな言説は,アニメや漫画の保守的な部分がモロに出ている感じがして,ニヤニヤしてしまったりします。東氏の,「あれをわかるためには、ライトノベルの感覚がわかっていなくてはいけない」みたいな話もしかり。

素朴に考えて,「Aという作品を『わかる』ためには,Bという作品を知らなければならない」→「Bという作品を『わかる』ためにはCとDという作品をわかっていなければならない」→……(以下略)のような連鎖が続くメディアなり「シーン」なりが,「マトリョーシカ状態」になるのは目にみえています。作品が増えるにつれて,消費者の負担が増えるからです。まぁ,そういうもんを丹念に追い掛けて網羅するのが,消費者の鏡ってもんなんでしょうけれど。

んでもって,東氏は,その点で,自己言及的でメタ的な『ハルヒ』を批判しているんだとも思います。考えてもみたら,(あたしを含めた)オッサンでも,10代が読むライトノベルを違和感なく読めるというのは,決してあたしの感性が若いからではなくて,あの頃の「お約束」が今も生きているだけだからなんじゃないでしょうか。それほど供給サイドは停滞している。

ただ,あたしゃ個人的に,こうした視点には,「消費者の消費の仕方」といった視点が抜けていると思うんですね。

自己言及的でメタ的な『ハルヒ』を,「自己言及的でメタ的な作品」として消費する消費者は,供給サイドにとっては都合のいいお客さんなわけですけれど,そうした文脈からは何も生まれない。これは,東氏の指摘する通りだと思います。ただ,「消費の仕方」はそれだけじゃない。自己言及的でメタ的な作品を,(自覚・無自覚を問わず)ベタに解釈するのもアリだと思うんです。つまるところ,東氏は「化学反応」を狙うなら,供給サイドで自己言及的でもメタ的でもない「ベタな」作品が,既存レーベルに登場するのを「待っているしかない」と言うわけですけれど(※参照:「硬質の物語をベタに普通に書いてくるスタープレーヤーが現れれば問題はすべて解決されると思う。それしかないでしょうね。」),消費者サイドでこういう話を駆動するのもアリなんじゃないか,ということです。もともと,アニメやライトノベルの界隈は,消費者ドリブンな側面もあったわけですし。

ところが,引用鼎談のメンバーは,メタ的な読み方以外の読み方を「そのまんま影響を受けた若い子」として排斥してしまう。これはどうなんでしょう。そんなもん踏まえなくたって,消費者はそれぞれのやり方で消費していくと思うんですが……。それとも,やはり「カウンター」やら「インスパイア」やら「オマージュ」やらの系譜を踏まえることは,作品を消費する上で必須のことなんでしょうか。そうだとしたら,マトリョーシカもやむなし。当たるはずのないものが,たまたま当たっただけの話で終わるはずです。一方では新しい作品を求めながらも,他方では「真正面から受け止めてしまうユーザー」を排斥する。ここら辺がなんでなのかよく分からないところだったりします。供給側に対するフィードバックが偏るのも,無理はないんじゃないでしょうか。

あちこちの『ハルヒ』の感想を読ませてもらっていると,もちろん作法に則ってメタな解釈をする方もいらっしゃるわけですけれど,「ベタな解釈」を通じて消費者サイドで物語を駆動している方も見受けられて,とても楽しかったです。供給サイドからしてみたら,あるいは評論家の目から見ると,それは個人的な実存の問題にしか過ぎなくて,「この物語はこんなことを言いたいわけじゃない」とかいった文句のひとつも吐きたくなるかもしれません。けれど,そこにある消費は,消費の対象を既存の文脈に当てはめるだけのような機械作業でないことは確かだったりします。んでもって,こうした「読み」が,物語なり作品の周辺なりを充実させていくんじゃないか,と。

結局のところ,『ハルヒ』ブームが瓦解するかどうか,あるいはこのこの界隈がマトリョーシカ状態になるかどうかは,消費者サイドで駆動した物語を供給サイドがどの程度汲み上げるか,なんだと思います。もちろん,超新星の作家なり監督なりを待つってのもアリですけれど,やり方としては消極的。まぁ,あたりまえっちゃあたりまえのことなんですが。

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