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読書メモ - ポストモダンあたりのあれこれ

2006年07月25日

最近読んだ本です。

現代のキリスト教
現代のキリスト教
posted with amazlet on 06.07.24
小田垣 雅也
講談社 (1996/11)
売り上げランキング: 1,530,827

この1ヶ月くらいつらつらと新約聖書を読んでいて,理解のために読み始めた本。近代以降,20世紀のニヒリズムを乗り越えて,現代のキリスト教がどう立ち振る舞ってきたかを解説しています。考えてもみたら,キリスト教は「大きな物語」なるものの典型なわけで,現在どういった状況に立たされているのか興味があったのでした。今月読んだ本の中ではかなりアタリだったんですけど,Amazon に新品は置いてないみたい。マーケットプレイスではプレミアムも付いちゃってたりして……残念。

んでもって,タイトルの話。ここで言うポストモダンは,デリダも含めた「後-近代」としての(広い意味での)ポストモダンを指しています。久松真一氏の話を引いて,こんな話が。

久松のこの論文には差延的言説すらある。久松は「以上のさとりの人間像の解明は、さとり以外からの対象的解明ではなくして、さとりの自己表現としての解明であるが、しかしこれも畢竟さとりの対象的解明に過ぎないではないかというならば云々」と断っている。さとりそのものは、たとえさとりの自己表現であろうと、常にさとりの解明や自己表現をすり抜けてしまうと言っているのである。さとりを言語によってとらえることはできない。そのことを禅では率直に不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏と言っている。このような禅の教えをデリダの差延は知的に(これは揶揄的な意味で使っている)説明しようとし、その結果、無限後退の迷路に陥っているのである。

(snip)人間が自己に目覚めて以来のロゴス中心主義は、人間が世界の中心であると考えた虚構であり、その虚構ゆえに、わたしたちは自然に反目し、世界を見失い、神を失ってきた。ポスト・モダーンがそのロゴス中心主義の否定であるならば、それは以上述べたようなロゴスの終焉の場、無の場によってその意図が達成されるということだ。そしてまたそれは、人間本位主義的宗教には徹底的に反対するが、それゆえにこそ、深い次元で宗教的だということである。

『現代のキリスト教』(小田垣雅也,講談社学術文庫,1996年,pp198-199)

本書は,ネオ・ロマンティシズム神学なるものを志向するもので,ポストモダン(ひいてはデリダ)に対する態度としては,西田幾太郎をフックにして「無の場」における思想を目指すという趣旨になっています。もっとも,著者の小田垣氏は,「スキゾ」だとか「戯れ」だとかいった言葉がどうも好きではないらしく,デリダの位置付けも「無限後退に困っている人(無限の差延に漂う人)」というところに止まっているようです。

ここで,「無の場」といった話で言うと,『自由を考える』にあった次の話が想起されます。

自由を考える―9・11以降の現代思想
東 浩紀 大澤 真幸
NHK出版 (2003/05/01)
売り上げランキング: 35,602

【大澤】 (snip)今日の、少なくとも、いわゆる「先進国」における自由とその抑圧ということを考える場合には、「何か具体的・積極的に存在している行為の選択肢が奪われている」という構成では、やはり語りきれない。このことは、今日の対談の最初の方でも論じたことですね。もし奪われているものがあるとすれば、それは、伝統的な枠組みのなかでとらえれば、「無」であるとしか言いようがない。しかし、「無」が奪われている状態は、何も奪われていない状態、完全な自由の状態と同じかというとそうではない。そのことをうまく説明するためには、「無」を指し示す概念を発明しなくてはならないわけです。

『自由を考える―9・11以降の現代思想』(東浩紀,大澤真幸,NHK出版,2003年,p238)

あたしの理解だと,「『無』が奪われている」というのは,テクストに対して無限にありうる解釈の可能性あるいはその機会が奪われている,ということなんだと思います。

んでもって,この文章を読んでいて疑問に思うのが,「『無』が奪われる」という事態があるのか,ということです。「絶対他者」としての「無」というのは,対象化できないからこそ「無」なのであって,「『無』を奪う」というのがどういうことなのか,ちょっと分かりません。まぁ,前掲引用と無理矢理結び付けているのが問題なのかもしれませんけど。

また,本書に即して言えば,おそらくここで問題になるのは,そこにある(とされる)「抑圧」を指し示すことなんだと思います。で,こういうことをするには,「『無』が奪われている」ことをポジティブに強調(「概念を発明」)しなくちゃいけないわけですけれど,考えてもみたら,「大きな物語」が終焉したと宣言する一方で,こうしたことはそもそもできるんでしょうか。仮に,何らかの方法で〈抑圧〉なり〈権力〉なりを規定できたとしても,結局,テクストは差延を失って旧来型の権力が立ち現れるだけなんじゃないかと思ったりもします。

つまり,ポストモダン的な状況では「大きな物語」の終焉を前提にしているわけで,〈抑圧〉とか〈権力〉といった「概念」そのものが機能するのかがよく分からないわけです(※だからこそ「伝統的な枠組みのなかでとらえれば」といった条件が入っているんでしょうけど)。変な話,ポストモダン的な文脈では,「抑圧は存在する」とか「環境管理型権力は存在する」みたいな,変てこな言い回しになっちゃうんじゃないかと……。

『現代のキリスト教』では,解放神学とフェミニスト神学を引き合いに出して,ここら辺の話も扱っています。

元来、「〜の解放」、たとえば飢えからの解放は公共的でわかりやすい。しかし何が「〜にむかっての解放」であるかは分かりにくい。それは恐らく自明なものにはならない。むしろそれが自明化されないことが、自由とか解放の意味なのだ。特定のイデオロギーにむかっての解放などは、解放ではなくて抑圧である。そしてこの「何にむかっての解放か」が不明であることが、解放の神学の学問化を急がせ、自己納得化に走らせるのであろう。しかしその学問化の結果、それらはポスト・モダーン的ネットワークから離れ、時代に逆行したものになる。

(snip)社会的被抑圧者の救済という当たり前の事柄を、イエスの名において唱えているだけのような、ましてそれを大学の講壇で語っていることの矛盾に気付かないような解放の神学なるものは、無自覚なセンチメンタリズムに過ぎぬとわたしには思われる。

『現代のキリスト教』(小田垣雅也,講談社学術文庫,1996年,pp265-266)

ぼろくそな表現ですけど,結局のところ,ポストモダンによって旧来の権力を崩しても,新しい権力に挿げ替えるだけじゃ〈抑圧〉は温存されたままなんじゃない?みたいな話です。無理矢理に両書を結び付けてるから,こんな話になっちゃうのかしらん。

これまでなんとなく思っていたんですけど,やっぱりポストモダンは宗教の香りがします。もちろん,思想は大抵宗教と関わるもんだし,宗教そのものが悪いもんだとも思いません。ただ,日本の場合,そうした思想の宗教性みたいなもんにあまり慣れていないんじゃないかと思えます。まあ,慣れていないのは,あたしだけかもしれないわけですけど。

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