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「芸のある毒」をもう少し――あるいはパンツを脱ぐ覚悟

2006年08月05日

少し前に「qune: ナンシー関氏のコラムに見る「芸のある毒」」というエントリを書いたんですけれど,『ナンシー関—トリビュート特集』で,長谷正人氏が「テレビ世界の生態学的観察者――ナンシー関の倫理をめぐって」という話をしていたので,もう少し書いておきます。

ナンシー関―トリビュート特集

河出書房新社 (2003/02)
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前回のエントリでどんなことを書いていたのかというと,こんなことを書いていたのでした。

「芸のある毒」ってのはどんなものなのか考えてみたんですけれど,これって「消費のしかた」に芸がある,ってことのように思えます。もう少し詳しく言えば,需要に値するだけの「消費のしかた」を供給している,といったところです。

qune: ナンシー関氏のコラムに見る「芸のある毒」

んでもって,「テレビ世界の…」はこんな話。

彼女はあえて、このような「芸」のない「だらだらした」テレビ番組にとことん付き合って楽しもうとした。あるいはそれを楽しむ術を私たちに伝えるのが彼女のテレビ批評だった。(snip)ナンシー関は、タレントたちがただ「生きていること」だけをだらだらと中継する、「芸」としての巧拙も「作品」としての出来ばえもない最低の番組群に対して、あえて視聴者の側がそこにエンターテインメントとしての「芸」を発見していくという、ギリギリの逆説的な戦略を展開しつづけた。

『ナンシー関―トリビュート特集』「テレビ世界の生態学的観察者――ナンシー関の倫理をめぐって」(長谷正人,河出書房新社,2003年,p121)

あたしがパクったかと思えるほど,意見が一致していたもんでビックリ。パクってません,パクってません。

それはともかく,おそらく,これからの批評は,こうした手法を使っていくしかないと思うんですね。「大きな物語」とかいった話を出すまでもなく,特定の「消費のあり方」に権威があった頃と違って,今どき「消費のあり方」に「権威」なんてもんはありませんから。

つまり,権威があった頃の議論は,その正当性なり責任なるものが,「既存の権威的な文脈」にあって,書き手にはなかったということです。その態度は「まだ発見されていない『正当な』意味」を明らかにすることであって,それは「客観的に存在するもの」とされています。したがって,この頃の書き手は,ぶっちゃけて言えば交換可能だったと思うんです。書き手によって,結論が変わる文脈は「客観的に存在する」とは言えませんから。

ちょっと抽象的なので,もう少し具体的に説明すると,あるドラマの批評をする場合,「役者の巧さ」とか「ストーリーの出来」とかいったものには,ある程度善し悪しを判断する基準があったと思うんです。これが「既存の権威的な文脈」です。んでもって,こうした基準が権威を持っている時に批評家がすることは,結局のところ「その基準と当該ドラマの照合作業」なわけで,批評家自身の善し悪しは,「作品を基準にうまく当てはめているか」というところに求められていたと思うわけです。

こうした作業は,批評家の名において批評しているわけですけれど,基準そのものは権威的ですから,「どういうドラマがいいドラマか」という点については動かない。その意味で,批評における責任(自分が「いい」と判断した根拠を説明する責任)は,基準そのものの中に閉じこもらざるをえません。極端なことを言えば,批評家は単に基準を適用するだけ。機械と同じなので,責任能力はありません(※比喩です)。

ナンシー氏の手法が,こうした方法と対照的なのは,「消費あり方」あるいは「いい番組の基準」自体を,「自分で決定している」ところです。著書において,ある芸人をいじったり酷評したりしても,それは「ナンシー関の名において」しているわけで,責任の所在が「ナンシー関本人」にあるのは,間違いありません。この点で,あたしはナンシー氏を誠実だと思うんです。

もちろん,「ナンシー関の名において」批評する以上,そこには主観が入り込まざるをえません。けれど,あたしゃ思うんですけれど,批評ってのは,どうしたってその人の実存が入り込むもんだと思うんですね。権威を持った「消費のあり方」に頼った場合でも,最終的には自分の実存を表明していると思うんです。ということは,つまるところの問題は,そのことについて「自覚的であるかどうか」なんだと思います。

冒頭の本にあった,「ナンシー関 名言&名バック集」にこんなことが書いてあります。

他人から「趣味」を見破られることがどれだけ重大であるか、の覚悟が必要だと思う。

『ナンシー関―トリビュート特集』(河出書房新社,2003年,p191)

ナンシー氏は,「自分の名において」批評している,そしてそのことに自覚的でもある。それは,結局のところ,「『趣味』を見破られること」の重要性を「覚悟」することと同じなんだと思います。どうしたって自己言及になっちゃうことを潔く認めるというか,そんな感じです。神様の視点に人間が立てないことは,分かりきってるんですから。

そういえば,「『趣味』を見破られること」というと,庵野秀明氏が『庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン』で,「創作とはオナニーショウである」とか言っていたことが思い出されます。

庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン
大泉 実成
太田出版 (1997/03)
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具体的にはこんな話。

[大泉] (snip)宮崎駿作品は、どのあたりで嫌になってきたわけですか?

[庵野] 『トトロ』まではまだ良かったですね。『魔女の宅急便』あたりからかな。『紅の豚』はもうダメです。あれが宮崎さんのプライヴェート・フィルムみたいなんですけれど,ダメでした。僕の感覚だと、あれはパンツを脱いでないんですよ。なんか、膝までずらしている感じはあるんですが、あとは足からパンツを抜くかどうか。パンツを捨てて裸で踊れば、いよいよ宮崎さんは引退を決意したかなと思います。

(snip)

[庵野] (snip)まあ、基本的に作家のやってることって、オナニー・ショウですから。それでしかないと思うんですよ。

『庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン』(大泉実成,太田出版,1997年,pp64-65)

アニメ作家と批評家は,表面的には異なるものの,表現者として結果なり反応なりを自分の趣味や嗜好に帰責させる点では同じなんじゃないかと思います。それと同時に,これを実行に移すことはかなり難しい。アニメの場合,作家性が備わってからもう随分経つけれど,パンツを脱いだ人はどれくらいいるんでしょう。

以前,このサイトで「『立ち位置』を表明しない論評は意味がない」みたいなことを書いたと思うんですけれど,突き詰めて言えば,ここで書いたことと関係してきそうです。実存丸出し,下手なキャラ立てするより,結構,結構。

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