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「偽善」という批判について少し

2007年01月21日

偽善の指摘は無意味だな……といった話を少し。

世の中には「善いこと」とされていることがあって,それについて「偽善」が語られることがあります。例えば,「世の中には満足に食べられない人がいるから残さずに食べよう」とかいった話。自分の食べ残しが満足に食べられない人に渡ったりするわけじゃないし,自分が残さずに食べたら満足に食べられない人の腹が膨れるわけでもありません。論理的に見て自分が食べ残すことと空腹な人の経済事情は,因果関係が希薄なわけで,善とか悪とか言う以前に「無関係」「無意味」といったもんに入るんだと思います。無意味なことは,「善」でも「悪」でもない。もちろん,「偽善」でもない。

一方で,例えば,震災や戦災に遭った人への支援物資を送るぜ!と意気込んで,汚い服や着られない程のボロ服を送りつけるのは,結果として善になっていません。この場合は,上の場合と異なって,因果関係があるところが要チェキ(死語)です。ほぼ強制的に物資を受け取らされた挙句,処分する手間が増えた人にとって,その行為はむしろ「悪行」かもしれません。

で,「偽善」というのを考えるとき,あたしゃ後者を指すと思うんですね。多義的な言葉だから,ここだけで通用する意味になっちゃうかもしれないけれど,そう思います。つまり,「善かれと思ってやったことが悪い結果を生んだこと」あるいは「一般的な評価として悪い結果が生じると分かっているのに,それを善い結果だと思って続けること」といったところです。「良かれと思ってやったことが何の効果も無かった」とか「何の効果もないのに善い結果が生じると思って続けること」とかってのは,「偽善」じゃなくて「無意味」というわけ。

もうひとつ例を挙げると,例えば,毎朝職場なり学校なりの掃除を自発的にしているけれど,それは上長なり先生なりにおべっかを使うためで,利己的な目的からしたものだった,とかいった場合。こんなのがおべっかになるのかは分からないけれど,あたしゃこれも「偽善」とは言わないと思うんですね。結果的にきれいになっていればいいわけで,その人がどういう意図でやろうと善いことは善い。

「偽善」についてこのように場合を分けるのは,「その行為は偽善だ」とかいった指摘が,しばしば人格非難に及ぶことがあるからです。結果だけを見て,善ければ「善」,悪ければ「悪」。偽善というのは,「悪」の言い替えで,結果は「悪」だけれど内心は「善」という場合。こういう風に分ければ,何が「善」なのかといった話は措いておくにしても,何について善悪を論じているのかが分かりやすくなるはずです。内心に踏み込まれる機会も少なくなるはず(※ここだけの用語法です)。結果として無意味だった場合に,「偽善」のレッテルを貼られる心配もありません。

もともと,偽善の指摘ってのにはあまり意味がないと思っていて,単純に「何が悪いのか語彙が少ない僕には指摘できないけど,気に入らないから相手の内心(自己満足等々)に転嫁しとけ!」みたいな場合が多い気がしています。また,人の内心(善かれと思って)なんてのは,他人からは指摘できないのが普通だし,指摘できたとしても,そんなもんが議論の中心になる場合は限られています。発言者の悪性格といった本題から逸れる話を俎上に乗せる行為は,議論そのものからすると善いことじゃないはず。

無意味な批判はしない方が「善」(だと思う)。

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