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なぜころ問答を少し考える

2007年01月24日

人力検索はてな - 倫理・宗教・法律を持ち出さず、かつ情に訴える以外の方法で、「なぜ人を殺してはいけないか」を説明してください。 説明できない・いけない理由はない・ケースバイケース、という類の回答はご遠慮ください。

あたしゃ刑事法を専攻していたので,こういう話は国家的な観点(つまり法律)から見てしまうんですけれど,そういうもんを取っ払ったときに,なぜころ問答は成り立つんでしょうか。興味深いです。

まず,この話の前提を確認しておくと,「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いには,「いけない」が含まれているわけで,ここの解釈の仕方がポイントだと思うんですね。

「○○してはいけない」というのは,「○○できない」よりも少し意味の狭い言葉で,「○○してはいけない」と言う人が必要です。物理的に「できない」わけではなくて,「やろうと思えばできる」わけで,だからこそ「○○してはいけない」な命題は「○○してはいけない」と呼び掛ける人が必要だというわけ。まぁ,「呼び掛ける人」といっても,もちろん現実に人間である必要はありません。つまるところ,「○○しようとしている私」の外側から呼び掛けられているところがポイントだと思うわけです。

この点で,法律だったら,刑法(199条,240条等々)ひいては国家が「殺しちゃだめ」と言っているし(禁止規範),宗教だったら神様が「殺しちゃだめ」と言う(言わない神様もいるけど)。微妙なのは倫理観ですけれど,禁止規範的な倫理は「○○しちゃだめ」と自分の外側から呼び掛けているはずです。そうじゃないと,「なぜ○○してはいけないのか」という問い自体がなくなってしまいますから(※「○○はしないものだ」(○○しようとしている私がいない)になるのか?)。

んでもって,なぜころ問答というのは,法律的であれ社会的であれ宗教的であれ倫理的であれ,はたまた科学的であれ,この「○○してはいけない」と言っている「私」の外側にいる人(主体)を探すことなんだと思います。

仮に,はてなQのように,そういった主体が全くいないと仮定した場合,つまり,私の外部には何もないと仮定した場合,なぜころ問答は成り立つんでしょうか。自己矛盾のようにも思えます(外部がないことを仮定しておきながら,外部を想定した問いを発する)。

その意味で言うと,なぜころ問答に対する「答え」というのは,イデオロギッシュにならざるを得ません。もちろん,言葉を連ねることで,禁止する主体の輪郭をなぞることはできそうです。けれど,結局のところ,それは規範なり社会なり宗教なりといったものを同語反復するだけで,ひっくるめると「だめだからだめ」になってしまう。ドーナッツの周りをなぞるように,穴の空いた核心の周りをグルグルと回るだけなんじゃないでしょうか。んでもって,ドーナッツの穴は人間の住むところじゃありませんから(穴に入ると外部がなくなってしまう),穴なんかあってもなくても,人間にとっては「どうでもいい」。あたしゃ最近そんな風に思ってるんですね。

まぁ,分かったような分からないような答えで,ごまかしている感じもするんですけれど,とりあえず思っていることは言ったぞ。満足だ(自己満足)。

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