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読書メモ - ロックの時代の契約観と現在の契約観は結構違うんじゃないかと徒然

2007年02月02日

今,稲葉振一郎氏の『「資本」論』を読みはじめているんですけれど,気になるところがあったので,ちょっとメモ。本当にメモ書きなので,ほとんど憶測混じりです。

「資本」論
「資本」論
posted with amazlet on 07.02.02
稲葉 振一郎
筑摩書房
売り上げランキング: 143188
おすすめ度の平均: 3.5
4 アウシュビッツを擬制によって抑圧することは、本当に可能なのか?
2 いろいろ詰まってます
4 さらなる議論の進展に期待

まだはじめの方しか読んでいないので,本書の全体については何も言えません。「気になるところ」というのは,ホッブズが主権を考える際に契約一般(財産権一般)を主権の射程に入れるのに対して,ロックは土地所有権に限定しているけれど,これはなんでなんでしょね,といった話です。

契約一般を主権の射程に入れる,つまり,ホッブズ的には自然権の内容としての財産権一般を放棄する,という説を採れば,土地を持たない庶民層も主権の枠組みに入れられるのに対して,ロックの場合は主権の射程を土地所有権に限定してしまいます。こうすると,直截的に主権の枠組みに入るのは,土地を持つ富裕層しか相手にできないわけで,庶民層については自然状態が残ることになってしまいます。もっとも,間接的に土地を利用する契約(土地賃貸借契約等)に縛りがかかるから,「自然状態が残る」というのは,言い回しとしては適切じゃないんですけれど,ともかくそんな感じ。

で,この理由はなんでなんでしょね,という話になるわけですけれど,稲葉氏は反-王権神授説(神様を使わないで主権を説明する)のロジックとして継続する家産としての「土地」が必要だった,みたいな読み方をしています。長いですけど,引用します。

このようなロジックで庶民を社会契約のフィールドに引き込むという、今日の我々にはごく自然に思われるロジック――ホッブズはこれをとっていたと解釈できます――を、なぜロックは採用しなかったのでしょうか?それはおそらく統治権力、国家というものの継続性にかかわっています。ロックは『統治二論』の第一部において、ロバート・フィルマーの王権神授説を批判しています。君主の統治権の根拠を、人類の始祖アダムからの相続による継承に求めるフィルマーの議論を強く否定して、代わりに社会契約の理論を打ち出したわけです。しかし実はロックは、フィルマーを全面的に否定できたわけではなかったのです。フィルマー同様にロックも,統治権力、国家を世代を超え、個人的な人生のスケールを超えて継続するもの、せねばならないものと捉えていました。そしてフィルマーのように、その継続性の根拠を、直接に主権者=君主の血統的継続性に求めることはしなかったけれども、言わば間接的に、契約参加者の財産、家産の継続性に求めてしまったわけです。

『「資本」論』(稲葉振一郎,筑摩書房,2005年,p55-56)

あたしゃ,この考え方を否定するわけでも批判するわけでもないんですけれど,当時の契約観として,土地がどれだけ意味を持っていたのか,ということを考える必要があるんじゃないかと思っていたりします。

例えばですね,土地を売買するのは売買契約なわけで,債権契約なわけですけれど,これは家産としての物と物(金銭)を交換する契約ですから,契約そのものとしては割と原始的な類型に入るんだと思います。賃貸借も物を介しているから同じこと。ここで,物権(物を支配する権利)と債権(人を支配する権利)の違いはそれほどありません(あくまでも程度の問題ですけど)。日本法の話で喩えるなら,土地賃貸借契約と地上権が大体同じようなもの,といったところを想像してもらえばいいと思います。

けれど,社会の経済が高度に発展してくると,直接物を扱う契約よりももっと高度な契約類型が生まれます。例えば,金融の領域なんかではよくあるように,物の担保をさらに担保に入れる(担保が担保になる),とか,物の売買契約上の債権を取り引きするとか,債権を担保に入れるとかいったようなもんです。現在では普通に行なわれていることですよね。この手の契約類型は,今日非常に多岐に亘るし,物権一般よりも社会的な意味があったりします。

んでもって,「契約一般」を射程に入れる,といったとき,当時の人々にそういったロジック(というかテクニックというか……)があったのかと考えると,非常に怪しい。もちろん,ロックは英米法の人なので,もともと日本の財産権と比較するのが難しいったこともあるんだと思います(日本の民法は仏・独(極一部は英米法)継受)。けれど,それ以前に,財産権といったら物,とりわけ「土地」を目的にするってのが常識だったんじゃないか,と思えるところがあるんです。特に,統治権と話なると,土地所有権(特定の土地を支配する権利)は財産権の中核だったんじゃないか,と……。ここら辺は,検証が取れていないので憶測なんですが。

そう考えると,ロックの時代の場合,契約といったら基本的には物の取引,とりわけ土地の取引を言うのがあたりまえだったんじゃないか……。つまり,家産としての永続性が論拠になったことはあるかもしれないけれど,ことさら反-王権神授説を強調する意味で土地取引を持ち出しているわけじゃないんじゃないか,と思えるわけです。

まぁ,「だからなんだ」と言われると,「ただそれだけ」の話なんですけれどね。なんとなく気になってしまいました。なんだかすごくアホなことを言っているのかもしれないな。

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