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対抗することで加担するの話

2007年02月27日

最近読み始めた本です。全部読んでいないのに紹介するのもアレなんですけど,論文集ということでご容赦をば。

ポピュラー音楽へのまなざし―売る・読む・楽しむ
東谷 護
勁草書房 (2003/05)
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本書は2003年頃のポピュラー音楽についての論文集なんですけれど,あれから何がどう変わったわけでもないわけで,むしろ,本書で論じられていることが先鋭化している気すらします。

本書に言う「ポピュラー音楽」は,普通の「音楽」とちょっと違うところがあって,多分に社会的・政治的な要素が含まれている音楽のことを言います。正確に本書の言い回しを使えば,「大量複製技術を前提とし、大量生産〜流通〜消費される商品として社会の中で機能する音楽であり、とりわけ、こうした大量複製技術の登場以降に確率された様式に則った音楽」といったところ。

現在,「音楽」というと,CD やネット経由で入手するのが当たり前になっていますから,逆にこうした捉え方をするのは難しいんじゃないかと思います。個人的に,今の音楽シーンが停滞している(ように見える)のは,「良い音楽が減った」とかいった単純に主観的・芸術的な要素だけじゃなくて,社会制度的な要素が多分に含まれていると思うんですね。そういう取っ掛かりというか,引っ掛かりというか,そういうもんを持っている人にとっては,現在の音楽シーンを読み解くための,良い参考書になるんじゃないかと思います。参考文献もたっぷり載っているので,(頑張れば)ある程度突っ込んだ話まで触れることができます。

本書に言う「ポピュラー音楽」が,単純に巷でよく知られている音楽をいうのではなくて,「大量複製技術を前提とし,社会的に機能する音楽」のことをいうのは上述の通りですけれど,ここで面白かったのが安田昌弘氏の「ポピュラー音楽にみるグローバルとローカルの結節点」という論稿でした。ヒップホップの起源としてのアメリカと,それをローカルかつナショナリスティックに受容する周縁の関係がとても興味深い。

ローカルラップの出現は、グロ-バル資本に対する周縁部の連帯した抵抗というよりは、様々なローカルによる世界市場への熾烈な参入競争と、ヒップホップの起源としてのアメリカにあこがれつつローカルなラップにナショナリスティックな誇りを持つという、日本やフランスのラッパーたちの両義的な性向をもたらすのである。

アパデュレイ(Appadurai [1990:296])は、地球規模の文化生産をめぐる議論のなかで、グローバライゼーションのもたらした新しい現実には「経済と文化と政治の間に、ある種の根源的な分裂がある」と指摘する。スクレア(Sklair [1991])も、多国籍活動を経済、政治、文化=イデオロギーの三面に分けて考える分析モデルを提示している。つまり、多国籍レコード会社の経済的所有権の英米による独占が瓦解しても、ポピュラー音楽生産の文化的中心がロンドン、ニューヨーク、ロサンジェルスであることは変わりがなく、海賊盤のはびこる「第三世界」には「先進国」の政治的圧力がかかることにも変わりはないのだ。なるほど、大国による文化強要という文化帝国主義の構図と違い、グローバライゼーションにおいて多国籍企業は周縁部の(対抗的な)音楽生産を妨げはしない。場合によっては奨励さえするだろう――その音楽に市場があり、その市場に彼らが参入している限り。それが強要するのは、普遍化された――つまりそれを普遍化しようとするもの達の間で普遍的だと信じられている――商品市場と競争原理なのだ。

『ポピュラー音楽へのまなざし―売る・読む・楽しむ』(東谷護 他,勁草書房,2003年,pp84-85)

日本のヒップホップは,文化帝国主義論の枠組みから,ナショナリスティックなローカル化を標榜しつつも,その場は依然としてアメリカ,しかも日本国内ローカルなアメリカという場を足場にしている,という話。ヒップホップ的なシーンは国内大手レコード会社といった「商業資本主義に対抗するもの=自身の正統性を主張する象徴闘争の場」として現われるけれども,その実アメリカによるポピュラー音楽支配に寄与してしまっている,という指摘がこの後に続きます。

大量複製を前提とした音楽の場合,作り手と聞き手が分かれていくことと,「商品」が流通することは必要十分な関係にあるわけで,ヒップホップを初めとした作り手聞き手の共犯関係は,(それがどれだけナショナリスティックになったとしても)結果的に競争原理の枠組みから外れることができない,といったところでしょうか。「本物を求めること」が「本物であること」に加担しているというか……ともかくそんな感じ(よく分からんな)。本稿は,政治的な戦略を説くものじゃないから,指摘するだけにとどまっているけれども,個人的にはこうした枠組みから「外れる」ための戦略として,「何か他の方法」を考えなくちゃいかんのじゃないか……と,つらつら思っています。いや,別にこれといった切迫感とか逼迫感みたいなもんは無いから,ほんとにつらつら思っているだけなんですけどね。

もっとも,こうしたジレンマは,あたしゃ割と昔から感じているところで,いちいち「戦略」とかいった言葉を使っているときは,そういった「加担せずにやっつける」みたいなことを考えていることが多かったりします。その意味で言うと,カウンター・カルチャーやサブカル近辺の政治的な話にも,「対抗することで加担する」とかいった,へんてこりんな逆説があったりするような,しないような。

本書は古本で買ったんですけれど,予想外に面白かったので,もう1回くらいネタの使い回しで紹介するかもしれません。

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