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読書メモ - 記号論はコミュニケーション科学ではない

2007年02月28日

昨日から読み始めて,いまだに読み終っていない『ポピュラー音楽へのまなざし』に印象的な箇所があったのでメモ。

ナティエの議論でもう一つ重要な点は、「記号論はコミュニケーション科学ではない」というテーゼである。一般にわれわれは音楽現象一般に対して、「作曲家の意図」あるいは「作品の本質」、「作曲家の自己表現」または「作品に込められた感情」などの創出レベルから発生した意味や意図が、記号に媒介されて「伝わる」ものであると考えてしまう。ナティエはそのような見方を厳しく排斥する。すなわち、

  作曲家 → 作品 → 聴取者
  演奏者 → 演奏 → 聴取者

ではなく、

  作曲家(演奏者) → 《痕跡》 ← 聴取者

というモデルで音楽現象を捉える(ナティエ [1996:19])。作曲家、すなわち創出レベルが作った《痕跡》は、作曲家の意図なり感情なりといった意味を載せる乗り物ではなく、ただの《痕跡》にすぎない。そして聴取者、感受レベルにおける実践が、《痕跡》からさまざまな意味を読みとる。正確に述べるならば、「意味を構築する」わけである。

『ポピュラー音楽へのまなざし―売る・読む・楽しむ』(東谷護 他,勁草書房,2003年,pp139-140)

なんだかストーカーばりに同じネタを蒸し返している感じもするんですけれど,ここでの話はこのサイトで書いた次の話とつながります。手前味噌なんですけれど,引用しておきます。

自己言及的でメタ的な『ハルヒ』を,「自己言及的でメタ的な作品」として消費する消費者は,供給サイドにとっては都合のいいお客さんなわけですけれど,そうした文脈からは何も生まれない。これは,東氏の指摘する通りだと思います。ただ,「消費の仕方」はそれだけじゃない。自己言及的でメタ的な作品を,(自覚・無自覚を問わず)ベタに解釈するのもアリだと思うんです。つまるところ,東氏は「化学反応」を狙うなら,供給サイドで自己言及的でもメタ的でもない「ベタな」作品が,既存レーベルに登場するのを「待っているしかない」と言うわけですけれど(※参照:「硬質の物語をベタに普通に書いてくるスタープレーヤーが現れれば問題はすべて解決されると思う。それしかないでしょうね。」),消費者サイドでこういう話を駆動するのもアリなんじゃないか,ということです。もともと,アニメやライトノベルの界隈は,消費者ドリブンな側面もあったわけですし。

qune: 涼宮ハルヒを見終わって「カウンター」がどうとかこうとか

あたしゃ,どんな文化的産物も「作り手のメッセージ」なるもんが,その作品を通じて直接聞き手に届くなんてことはありえないと思っているもんですから(やや誇張してますけど),本書のナティエの議論は特に興味深かったです。つまり,作り手は作りたいように勝手に作るし,受け手も自分にとって都合のいいように勝手に意味を構築していく,ということです。メッセージの伝え手(作り手)が文化的な現象の大部分を主導しているなんて考えるのは,商業資本主義の傲慢もいいところ……とかいったら大袈裟ですね……でも,おおむねそんな風には感じています。

それじゃ,音楽なりなんなりが作り出す「シーン」ってのはどういう場所なんでしょう。

思うんですけれど,本書にもあるとおり,それこそ,作り手はもちろん受け手をも取り巻く,経験なり実践なり抑圧なり解放なりがひしめき合っている場所なんじゃんじゃないでしょうか。んでもって,特定の作品に対して,特定の解釈を「正統」とするってことは,仮にそれがある種の知的作業が結論付けた「意味」だとしても,「シーン」全体としてみると単なるパワーゲームの一環にすぎないんじゃないかと思ったりもします。

このことは,もちろん,文化的な諸現象が受け手によって「のみ」駆動されると言っているわけじゃありません。ただ,文化的現象の当事者として,受け手である消費者は思っているほどちっぽけなもんじゃないんじゃないかい,ということだったのでした。

同じような話を蒸し返すのも,我ながらアレなんですけれど,ともかくそんな感じ。

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