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匿名性の魅力は純粋なコミュニケーションに対するロマンなんじゃないか説 - その1

2007年05月09日

先月の初めに mixi に入ったんですけど,日記を2件更新しただけで,ほとんど何もやってません。しかも,更新した日記のうち1件は,mixi に入ったことの報告なので,実質的な日記は1件しか書いていないという……。「mixi 疲れ」とか言う前に,すでに無気力。もちろん,こっちのサイトを更新する手間があるからってのもあるんですけど,それにしたって,この無気力っぷりには自分でもびっくりです。

で,そこら辺のアレコレについて少し考えていたんですけれど,「顔が見える」ことってのは,少なくともネットの上では相当野暮な話なんじゃないかと思ったりするんです。どういうことかというと,ネットに「生身感」を持ち出しちゃいけないだろう……ということ。

ネットにある主体(?)と現実の身体ってのは,おそらくまったく異質なものなんだと思います。というのも,ネット上の身体(と言えるかは分からないけど)は,一度にたくさんの人とコミュニケーションを取ることができるし,物理的な距離すら無視して,その身体を(パケットの届く限り)限りなく延長することができるからです。ネット上の主体というのはそういうもの……つまり,コミュニケーションに特化した身体とでも言えばいいんでしょうかね。

その点で,mixi には生身感がありすぎる。見える範囲も,話す相手も制限されていますから……。

んでもって,これは捉え方にもよるんでしょうけれど,そうした生身感をネット上に設けるってことは,ネット上に生身の身体が活動できる「疑似空間」を設けたのと同じことなんじゃないか……と,思うわけです。逆の話(バーチャルリアリティ云々)は珍しくないと思うんですけどね。あえてできることを制限して,生身感を演出するってところが,mixi のミソなんじゃないかと思うわけです。

mixi をはじめとした SNS の謳い文句には,「匿名がもたらす弊害を避ける」みたいなもんがあります。けれど,実のところそんなもんは二の次なわけで,「生身の身体」に回帰する手段として SNS が位置付けられているんじゃないでしょうか。もっと踏み込んで言えば,SNS に人が集まることは,「コミュニケーションに特化した身体」や「純粋なコミュニケーション」なるもんが,結構キツいってなことを示しているようにも思います。

ネット上の主体が,純粋にコミュニケーションのみを指向していて,しかもそれに特化しているとした場合,「匿名」なるもんに対するアプローチのしかたは,訴追可能性や文責の帰責先といった単純で制度的な問題以上の問題が残っている感じがします。ネット上で「疎外感」を感じることについても,同じような切り口から考えられるんじゃないかぁ……とも。

ともあれ,そこら辺の話はまた次の話ということで……(タイトルと本文がまだ結び付いてないなぁ)。

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