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匿名性の魅力は純粋なコミュニケーションに対するロマンなんじゃないか説 - その2

2007年05月20日

えーと……どこまで話したのかというと,この前は,コミュニケーションに特化した主体としてしか立っていられないネットという場は,案外キツいもんで,そういうキツさに対して生身的な疑似空間を与えるのが mixi のような SNS なんじゃないかなぁ……みたいな話をしていたのでした(参照:qune: 匿名性の魅力は純粋なコミュニケーションに対するロマンなんじゃないか説 - その1)。

んでもって,この「コミュニケーションに特化した主体」ってのを考えていたんですけれど,ここであたしが考えている「コミュニケーション」というのは,「メッセージの発信元」くらいの意味しかなかったりします。「誰々さん」と特定できないほど個性が消えている主体です。その意味で言うと,ここで「コミュニケーション」なる言葉を使うのは,あまり適切ではないのかもしれませんね。けれど,ネット上の「コミュニケーション」なるもんを考えるとき,発信者の個性なるもんはあまりアテになりません。あたしにしたって,実は女かもしれないし,定年を向かえて隠居している爺さんかもしれませんしね。ネットは,その程度の基本的な情報すら共有されない場なわけで,「コミュニケーション」なるもんの概念も現実のそれとは随分違うんじゃないかと思ったりするわけです。

こうした不確実な場の「主体」は,2つの方向に進む可能性が考えられます。1つ目は,ネットの中にリアリティを無理矢理作ろうとする方向,もう1つは,ネットの不確実な主体を積極的に取り入れる方向です。

例えば,「アルファブロガー」って言葉がありますよね。定義も曖昧だし,誰がアルファブロガーだか正確には分からないけれど,「アルファブロガー」なる言葉はある。こうした属性だけが宙に浮いている言葉ってのが,ネット界隈には沢山あるわけですけれど,こういうのって,ネットの中に「個性」なるもんを無理矢理作っているように思えるんです。個性にはリアリティがある。ネット上の不確実な主体を,なんとかリアルな世界につなぎとめようとする動きなんじゃないか,と,この頃ボチボチ思っています。

もうひとつ。ネット界隈で立ち回るプロモータの中には「ツナガル!ツナガル!」と連呼する,ツナガル教の信者みたいなのがいて,近頃のウェブサービスもこれをウリにした文句が散見されます。けれど,実際につながっているのはどこの誰なんでしょう……。そんなもんは分からない。実はつながってはいない。

ネット上に「個性」なるもんが無いとして,また,現実の意味における「コミュニケーション」や「つながり」が無いとして,そうした場所に「主体」なるもんが成立することができるんでしょうか。ここら辺が,最近のあたしの関心事です。

そういえば,ちょっと前に「qune: ホールとフロアの絶対的隔絶という話を妄想」というエントリを書いていて,少しだけ似たようなことを書いたのでした。

例えば,ネットの中で「生きる」というのは,そこら辺に対するある種の「あきらめ」というか「割り切り」というか,そういうもんと付き合っていくことなのかなぁ……と,ラーメンをすすりながら思いました。

qune: ホールとフロアの絶対的隔絶という話を妄想

ここでは「あきらめ」や「割り切り」といった「態度」の話に落とし込んでいて,やや逃げ腰なんですけれど,もう少し考えてみると,個性を捨象した純粋にメッセージだけが流通するコミュニケーションなるもんが,実は積極的な意味を持っているんじゃないか,と思えてきました。そのときのお作法が「匿名」です。

と,やっとタイトルと結び付いたところで,ここから先はまた別のエントリということで……(実はまだまとまっていない)。

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