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社交と潔癖

2007年08月15日

理性的であることと潔癖であることはとても似ていることで,裏を返せば,理解不能なもの(認識不能なもの)なるもんは,吐瀉物と価値的に同じもんなんじゃないか,と今日電車の中でふと思いました。吐瀉物と同じ価値観というのは,つまるところ「私が理解できないもの」なわけで,少しおおげさに突き詰めるとそれは「死」に通じる。

そういえば,数年前のあるテレビ番組で,石原都知事が都庁からの眼下を評価して,「吐瀉物のようだ」と言っていたのを覚えています。それ自体は,別に東京に対する悪口の文脈ではなくて,オリンピック誘致との関係で,計画的な都市開発を行なうべきだ,みたいな話。ただ,この文章の話に当てはめると,石原氏には東京について,(「死」を予感させるほど)理解不能な影があったのではないか,あるいは自分の理解(生)の範囲内に東京を収めたかったのではないか……と,そんな風に思ってしまいます。まぁ,為政者としてはそれが普通なんでしょうけど。そういえば,東京オリンピックも,インベントとして分かりやすかったようです。あたしゃ生まれてなかったので,「理解不能」ですが。

で,そういう意味で言うと,社交なるもんは,どんなに馬鹿げたものでも認識可能な「意味」があるわけで,つまり,潔癖の部類に入るんだと思います。なぜなら,どんなに洞察力のない人でも,近しい未来(次に相手(または自分)がどのような行為に移るか)を容易に予測する(させる)ことができる作法が,社交だから。社交を至上とする人にとってみたら社交的でない人間は,人間のクズではなく,単にクズである,と言うかもしれない。

一方,ネットの話で言うと,限られた媒体(文字・音声・映像)だけでコミュニケーションを取らななくちゃいけないわけで,近しい未来を予測することがとても難しかったりします。次々と浴びせられる情報に対して,アドホックに対処することはほとんど不可能だからです。んでもって,不確実な媒体を使うときほど,人は自分についても他人についても,その行為を限定したがる。そうしないと不安だから。ネットのマナー論というのは,そういうところから加速しているんじゃないか,と,ちょっと思います。

加えて,極度に不確実な場(ネット)にあって,それが現実(ネット以外)について語り出すとき,その単純に(けれど強固に)定式化されたマナーは現実にも適用されはじめます。某掲示板では,とある出来事について「非現実的」なほど「真っ当」な意見が飛び交うことがあるけれども,それは参加者が世間知らずで幼稚だからではなくて,ネット的な不確実性をそのまま現実に適用しているからなんじゃないか……と,そんな風に思ったりします。

マナー(ひいてはルール)の一側面というのは,そういうもんなんじゃないか,と,つらつら。

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