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論理的根拠なんてもんは恣意性の表現にしかすぎない

2007年09月09日

論理そのものは,もしかしたら一般的なものなのかもしれないけれど,人間がそれを持ち出した時点で,局所的で主観的なものになる。「論理的根拠!」とか「定義!定義!」とか言っている連中は,それらを持ち出すことそのものが政治的言説として構成されていることに気づいているのだろうか,それとも知りつつ目を背けているのだろうか。後者だったら無責任なだけに厄介だ……と,ぼちぼち思います。

例えば,こういう「論理」。「(俺の中で)情報を私有することは『論理的』に妥当な帰結だとは思えない。俺のもんはみんなのものという考え方が最も『合理的』ではないか。だから,俺があいつのものを自由に使おうと勝手だし,相手が自分のものを使おうと,もちろん自由だ。」……云々(もちろん,その逆もしかり)。ここで,「論理的」と帰結するための出発点が(論証のお約束としての)「定義」であることから,彼らは「定義」を重視する。けれど,考えてもみたら,定義そのものが既に政治的なものなわけで,まぁなんつーか,「何言ってんだか」とか思うわけです。要するに,ここでの勝負の帰趨は,「自分の論理」に都合のいい「定義」を取ることにかかっているわけで,それは,その議論における「声の大きさ」(= 政治的なもの)にかかっている。

そんなもんで,そこにある政治的問題は,そもそも「定義を決めること」にあるわけで,なんとかのひとつ覚えのように「定義!定義!」と言ったところで,何も始まらないというわけです。もちろん,人間の認識が有限である以上,普遍的な定義はありえません(あったとしても人間は理解できない)。その意味で言えば,数学者は政治を通り越しているし,つまるところ政治を知らない。んでもって,ここら辺に自覚的な人が,分かっていて「定義付け」をしているとしたら,面倒な話だよなぁ……とか思ったりするわけです。まぁ,分かってなくてされても面倒なんですが。

例えば,ネットを「公道」に置き換えること。それは,歴史的な所産として「定義のようなものとされたもの」なわけで,声の大きな人とその取り巻きが「勝ち取った」アングルであるということ。定義から「論理的帰結」が生まれるのではなくて,定義が「論理的(かつ政治的)帰結」を内包しているということ。そして,肝心の定義そのものの根拠は,普遍的な根拠どころか,政治的根拠以上の何ものも含んでいないということ。

まぁ,そんなことを休日につらつらと考えたのでした。

【追記】そして,このエントリそのものが「定義すること」を定義付けているわけで,メタでもなんでもないウンコだということ。

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