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観光的暴力というか空気読めないというか

2007年09月30日

生まれて初めて経済雑誌なるもんを買ってみたんですけれど,ちょっと複雑な感じになってしまいました。週刊ダイヤモンド2007年9月29日号の冒頭コラム「ネットカフェの居心地」より。

週刊ダイヤモンド2007年9月29日号

漫画喫茶とインターネットカフェを合わせたような店をネットカフェ、あるいは複合カフェというのだそうだ。最近では「ネットカフェ難民」とテレビ番組が名づけた現象もあって、あまり縁のないビジネスマンにも知られるようになった。(snip)

はたしてどういう「居住環境」なのか、オールナイトを二度体験してみた。まず繁華街のネットカフェ。夜間七時間で一二〇〇円だった。三〇〇円ほどのカレーライスを食べながら、ネットで無料の映画を二本見た。スペースは狭い。もう一店は郊外のネットカフェ。ブースは広い。繁華街の店と同じコンテンツのネットを見ながら漫画をぱらぱら。広いぶん高く、七時間で一七〇〇円だった。乏しい体験だが、想像していたよりは清潔でおもしろい。映画や漫画に熱中して過ごしたが、睡眠時間はほとんどなくなった。五十代の腰には少々つらいが、次回は長い睡眠を体験してみよう。

「ネットカフェの居心地」(坪井賢一,週刊ダイヤモンド 2007年9月29日号,p7)

要するに,オッサンの坪井氏がネットカフェ難民生活を「体験」したよ,という話。坪井氏は,「居住環境」を取材するために,ネットカフェに入っているわけで,一般的な,あるいは本来的なネットカフェを取材するつもりで利用しているわけじゃありません。目的は,あくまで,ネットカフェ難民の「体験」。で,この「体験」なる言葉なんですけれど,これが非常に空々しいもんで,むなしいっつーかなんつーか。

坪井氏が老体に鞭打ってネットカフェに入ることは,勝手にやればいいことだし,特になんとも思わない。それをダイヤモンドの冒頭コラムに書くことも……意味があるかは別にして,まぁ何も思いません。そう,多分問題だと思うのは,そこにある「意味」なんだと思います。坪井氏が「体験」としてネットカフェにお泊りしたことには,意味があるのか。「体験」とかいって,何も体験していないんじゃないか,と。

話は少し飛ぶけれども,この文章を読んでいて想起したことに,遊牧民のテレビ取材があります。

彼/彼女らは,客人をもてなすことを重んじる民族で,現に私たち取材班も手厚いもてなしを受けた。羊を1頭潰して,お母さんが手の込んだ料理をふるまってくれるのだ。普段,羊は祝い事などのような,特別の出来事がなければ潰さない。取材班は,遊牧民の馬に乗せてもらったり,羊の乳搾りをさせてもらったり,と,様々な「体験」をしたのだった。

あたしゃこの類のテレビ番組を見る度に,ものすごい違和感を覚えます。彼/彼女らにとって,大切な財産である羊を潰すほどのハレの客人は,遊牧民のケを「体験」できるんでしょうか。明らかに場違いだと思うんですが。んでもって,そのハレに組み込まれたケに「意味」はあるもんなんでしょうか。ここで問題にしているのは,もちろん,取材にあたってお金のやりとりがあるか(羊代を払っているか),とかいった問題ではありません。ヤラセがどうとか,とかいった問題でもありません。つまるところ,その「体験」なるものは,本当に体験として語る「意味」があるの?という違和感です。

もうひとつ,想起したこと。

大学時代,友人の友人がパキスタンに行った時の話。なんでも,その頃,パキスタンとインドの仲はえらく悪かったもんで(今も悪いですが),「核開発なんてやめようよ!」といったメッセージを伝えに行ったんだとか。で,そこでパキスタン人のひとりに言われたこと。

「アメリカの傘に守られている人に言われても説得力がない。」

友人の友人なり,その仲間がメッセージを伝えに行くことは,至極真っ当なことだと思うし立派なことだと思います。けれどあたしゃ,関係することが根本的に困難な「場」っつーもんがあるんだと思うんですね。それはそれで仕方がない。けど,それにしても,「自分は根本的に第三者である」といった点を取り逃すと,本人の行動そのものの意味がオシャカになってしまうんじゃないか,と思ったりするすわけです。

さらに,もうひとつ想起したことに,『おもひでぽろぽろ』の1シーンがあります。

おもひでぽろぽろ
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4 懐かしい。ただただ懐かしい。
1 違い
1 溜息

農家の「体験」をしに都会から来た主人公が,「嫁に来てくれ」と言われて狼狽するシーン。この一言で,主人公は自分が「まったく安全な第三者的立場」にいることに気付くのでした。当事者になる,あるいは,ある「場」と根本的に関係するということには,「いいとこ取り」では済まないことがある。

冒頭に戻って,坪井氏はネットカフェ難民を「体験」することができていない。一般化はできないけれども,ネットカフェ難民を「体験」するには,単にネットカフェに寝泊まりするだけでは足りないからです。少なくとも,あたしが聞く限り,住所のない人間として日銭を稼いでネットカフェでそれを使い果たすような生活の一部に,ネットカフェの寝泊まりがある。それを含めて「居住環境」なわけですし。体験するからには「いいとこ取り」では済まされない。

もちろん,それは,ネットカフェ難民になることなわけですが。

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