Entry

ソース読みのサイトというのは野暮なことなんじゃないかと思った

2007年10月15日

ソースコードを解読する云々,みたいなサイトを作ってみようかと思っていたんですけれど,これはかなり難しいように思えてきました。というのも,ソースコードを解読することがとても野暮に思えてきたから。

ソースコードを読むということは,目的がなんであれ,読むことそのものに意味があると思うんですね。それはちょうど,小説を読むようなもんで,少しこむずかしく言えば身体性を伴なっているということ。小説を読むことと,小説の解説を読むことってのは,まったく別のことです。どんなに解説を巧く書いても,解説が小説そのものに近付くことはできません。小説の意義が「小説を読むこと」にあるとしたら,その「解説」はそれ以上のどんな意味(あるいは価値)を持ちうるんでしょう……。

ソースコードを読むことと,小説を読むことのどこが似ているのか。コーディングを経験すると分かるのかもしれませんけど,全体の中で一部分を取り出すことが難しいところがよく似ています。例えば,ある小説の比喩表現はそれだけ見ると陳腐なものに見えることがあるかもしれません。けれど,全体の中の位置付けを考えると,調和が取れていることもある。ソースコードにしても,一部分のテクニックや考え方そのものを取って評価することは,とても難しかったりすると思うわけです。これはいわば設計思想の問題で,全体を踏まえた上で評価しないと,的外れになってしまう危険が付き纏うということです。

ソフトウェア開発周りの話を見ていると,時々,疎結合とかカプセル化とか再利用とかいった言葉が出てきます。あたしゃ思うんですけれど,なぜこうした話が出てくるのかというと,それをするのが非常に難しくて,ほとんどできないからだと思うんですね。つまり,プログラムには,属人的な要素が常に付き纏ってしまうということ。「デジタルで数学的な世界」といったプログラミングのイメージからかけ離れていて,意外かもしれませんけど,ともかくそういうこと。それぞれのプログラムには文脈があるし思想がある。しかも属人的な。

で,プログラムの部分を取り上げて,それだけを評価の対象にすることは,ある意味「別の文脈」に部分の思想を乗っけるようなもんなわけで,そこにどれだけ意味があるのか,とか思うわけです。それはつまるところ,解説者が「自分の思想に基いて(自分の実存の範疇で)」プログラミングし直していることと,さほど変わりがない。それなら,初めから当のプログラムを読むのが一番だ,というこということになるんじゃないか……と。ソースコードの解説なり批評なりは,自分でまとまったもんを作れない代わりにする手慰みみたいなもんなじゃないか……とも。それは,小説の批評も同じこと(だと思う)。

おそらく,ソース読みのサイトというのは,他人が作ったもんに安易に乗っかるようなやり方ではできないわけで,自分でそのプログラムを一から作る(あるいは設計する)態度がないとできないんじゃないかと思ったりします。そのためには,関係する厖大な知識が必要になるわけで,その点から言ってもなかなかできることじゃない。

と,そんなことをつらつら考えてているうちにも,手元のメモ書きはどんんどん増えていくのでした(まとめなきゃなあ)。

Trackback
Trackback URL:
Ads
About
Search This Site
Ads
Categories
Recent Entries
Log Archive
Syndicate This Site
Info.
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
Movable Type 3.36
Valid XHTML 1.1!
Valid CSS!
ブログタイムズ

© 2003-2012 AIAN