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車輪と直線

2007年10月23日

車輪の再発明って言葉,このサイトでも何度か使っているんですけれど,この言葉がどういう基盤に立っているのか,つらつらと考え中。「車輪の再発明」というのは,つまるところ,こういう話。

車輪の再発明(しゃりんのさいはつめい)とは、「広く受け入れられ確立した技術や解決法を無視して、同様のものを再び一から作ってしまう事」を意味する、車輪を題材にした慣用句である。英語では Reinventing the wheel であり、世界中で使われる。

新たな付加価値が何もないものを作成するのにコストをかけることから、皮肉的なニュアンスで用いられる。再発明を行ってしまう理由としては、「既存のものの存在を知らない」「既存のものの意味を誤解している」といったことが挙げられる。主にIT業界、特にSE・プログラマの間で良く用いられる。

車輪の再発明 - Wikipedia

ここで「広く受け入れられ確立した技術や解決法」というところが,おそらく,車輪を発明させているもんなんだろうな……とか思ったりするわけです。「発明させているもん」というのは,つまるところ,その技術を広く受け入れさせて確立させている当のモノということ。

例えば,クイックソートの「解決法」は,効率よくソートする「ため」の解決法のひとつであって,肩凝りを軽減させるための解決法ではない。つまり,肩凝り解消にはクイックソートは役に立たない。当たり前ですが。どういうことが言いたいのかというと,発明(という言葉が比喩的なら技術や実装)なるもんは,かなり主観的なものなわけで,発明する人(あるいはそれを享受する人)の目的に対応してこそ成立できる(発明として認識できる)んじゃないか,と思うわけです。

もし,クイックソートの原理的(あるいは数学的)な基礎が肩凝り軽減に役立つことがあるとしたら,それは,もはやソートとしてのクイックソートではなく,分割統治肩凝り解消法とでも呼べるような,新たな発明になる……んだと思います……多分。

で,思うんですけれど,おそらく「再発明」という発想には,かなりの程度直線的(あるいは線形)で進化論的な土台(ドグマともいう)が備わっていると思うんですね。というのも,再発明にいう「再」の意味を考えても,今私がした「この」実装/解決法と過去の実装/解決法が,「同一のものである」,といった前提が無ければ,再発明という言葉そのものが成り立たないからです。この同一性のドグマとでも呼べるような概念があってこそ,その実装は発明ではなく「再」発明と呼ぶことができる……と,云々。仮に差異があったとしても,ドグマスティックな同一性の基盤からすれば,「同一」とみなされる,というわけです。

んでもって,もう少し考えると,ソフトウェア産業を考えるときに,「再」発明となりうる基盤,つまり同一性の基盤がどこにあるかというと,割と話は簡単で,「お金」だと思うわけです。もっとそれっぽい言葉を使うなら,「費用(コスト)」のこと。つまるところ,同一性は資本で換算される……と。上記引用に言う「既存のものの意味を誤解している」というのは,あたしの解釈からすれば,「既存のものの『資本的な』意味を誤解している」ということになります。

で,さらに考えると,おそらく,本来的なオープンソースのものの見方ってのは,そうした差異(同一性とは表裏の意味での)の基盤を再構築するものだったんじゃないかと思ったりします。その意味で言うと,オープンソースの依って立つ思想は,かなりの程度左翼的。もっとも,産業的なソフトウェアに対するアンチではなく(OSS にはアンチを標榜するものもありますけど),既存のものさし自体の価値をずらす戦略を採る点で,無印良品とは違う。別に,無印良品が左翼だと言っているわけじゃないんですけどね。

ある人が「車輪の再発明」というとき,それが何において「再」発明と言っているのかを読み解くと,その人の職業が分かるかもねー……とか,思ったり思わなかったり。

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