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今読み途中の本 - ゲーム的リアリズムの誕生

2007年11月06日

遅ればせながら読み途中。面白いので,全部読んだら改めて書くかもしれません。ここでは読書途中メモ。

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書 1883)
東 浩紀
講談社 (2007/03/16)
売り上げランキング: 3377
おすすめ度の平均: 4.0
4 楽しかった
4 意図は伝わるか、失敗したか。戦略も逃げと取られるか。
2 バトルジェットとバトルクラフトだけじゃレッツコンバイン無理

あたしゃ思うんですけれど,オタクなりなんなりってのは,やっぱり実存との関係で考えた方がスッキリするんじゃないかと思うんです。というか,それであたしがスッキリしているところがあるだけなんですけど。

実存というのは,つまるところ,オタク的なモノゴトに「社会」とか「言語」とか「コミュニケーション」とか「歴史」とか「物語」(大小問わず)とか,ともかくソノ手の類のもんは全く無いんじゃないか,ということ(参照:qune: オタクの実存と「萌え」の話)。もちろん,それは欠落とか屈折を意味しているわけではないし,脱社会とか非現実とかいった話でもありません。それらは結局,「私」に対する「現れ」であって,他人と共有したり時代を超えて語り継いだりするような類のもんじゃないんじゃないか,ということです。ということで,オタクは本質的に孤独でなくてはいけない(多分)。

例えば,「共有する」ということは「妥協する」ことでもある。他人との関係で対象を分け合うわけだから,自分勝手なことはできません。で,妥協するということは,「私」を社会や言語との関係で対象化することでもある。つまり,「アニメを見る私」とか,「フィギュアを買う私」を,社会的に認識してしまうということなんだと思います。そうした「社会的な文脈における『私』」なるもんは,おそらくオタク的(と言われるもの)でなくても,いろいろとある。徹底的にパーソナルな「現れ」は,孤独の中にしか宿らないんじゃないか……と。ブルトンの孤独みたいに。

と,こう考えるのは,オタク的なものに対して周囲が不寛容だった時代と,あたしの年代が重なっているからなんでしょうけどね。そういう意味で言えば,あたしが語るオタクも,ただの現れなんと思ったり。

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