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絵を見せるだけでお話を考える子どもとキャラクターの身体性

2007年11月08日

読んでる本(『ゲーム的リアリズムの誕生』)のメモです。思いつくままに書くので,あまりまとまってません。多分,てんで的を射ていない話もあるはずです。あしからず。

何か絵を見せるだけで,お話を考える子どもがいます。というか,大抵の子どもは出来・不出来の差があっても,そういうことをしています。人形を渡すだけで,ロールプレイング(ごっこ遊び……専門的にどういうのかは知らないけど)する子どももいます。

この時,想像の中で作った人形やお話に出てくる登場人物に,「身体性」なるもんはあるんでしょうか。ここで言う身体性は,記号に対置する意味での身体性(ありていに言えばナマっぽさみたいなもの)。

ゲームに基くキャラクターが,リセットによって他の(小さな)物語を創出しうる,といった話は,身体性と裏腹の関係にあって,死すべき人間には唯一の結末しかないといった命題(?)と対置されます。けど,「リセット」ってそんなに重要なことなんだろうか。もし,死んだらそれっきり(リプレイ不能)のゲームがあったとして,それに身体性があるのかというと,ちょっと疑問。というか,かなり疑問。買い直せばリセットと同じ,とかいった細かい話を別にしても。

キャラクターの話を実存の話に解消した場合,おそらく,「想像(創造)できないものは捨象される」んじゃないかと思ったりもします。とても若い人間(の大半)にとって,「死」というモノは「生きてないこと」くらいの意味しか持っていないんじゃないでしょうか。そうだとすると,若者文学(ライトノベルをはじめとして)における「死」なるものの表現は,消極的に「生きてないこと」を示すだけで,必要かつ十分な表現となる。んでもって,これをあげつらって,身体性だの記号だのと区別するということは,本来まちまちに存在するはずの話を普遍化しすぎているんじゃないだろうか,とか思ったりもするわけです。

「小さな物語」という場合,あたしが考える物語の「粒度」と,本書に言うそれは,おそらくかなり異なっているんじゃないかと思います。物語は思考の枠組みを規定するとされるけれども,それを言うなら「小さな物語」なるもんはかなり細かく分化されて,最終的には他の誰のものでもない「私の枠組み」に収まるだけなんじゃないか,と。そして,それは決して共有されない。

お話を考える子どもの話は,大抵どこかの昔話と似ています。その話のリソースは,データベースとは言えないんでしょうか。

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