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読書メモ - ゲーム的リアリズムの誕生

2007年11月12日

なんだか忙しくて,一週間もかけて読んでたんですけど,やっと読み終わりました。

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書 1883)
東 浩紀
講談社 (2007/03/16)
売り上げランキング: 10991
おすすめ度の平均: 4.0
4 楽しかった
4 意図は伝わるか、失敗したか。戦略も逃げと取られるか。
2 バトルジェットとバトルクラフトだけじゃレッツコンバイン無理

これまで,多くはないものの,著者の文章は読んでいたんですけれど,本書を読んで,ようやく「東節」みたいなもんが分かってきた気がします(形式的にも内容的にもレトリック的にも)。普通,著者本人が,自身の基本的な考え方や表現の意味を,わざわざ説明するってことはあまりないので,こゆのは,割と重要だと思っていたりします。こういうのが分かると,それの受け売りで書いている人の基本的な考え方も,推測できたりしちゃったりして……(妄想かもしれませんけど)。

ともあれ,本書の内容。

本書は「理論」と「作品論」の2部構成になっています。前半は,どちらかというとこれまでの繰り返しが含まれていて,前著を補いつつデータベースやら動物化の概念やらを少し敷衍した内容になっています。一方で,読みどころは「環境分析的な読解」と称する批判(批評)理論を適用した「作品論」。

つまるところ,作中で読者をも共犯関係に仕立て上げて物語をドライブしていく方法論を,ライトノベルや美少女ゲームに見てみました,といったところでいいんだと思います。物語は,それそのものがメタ視点を持つことで読者を巻き添えにし(それは詐術に基く錯覚であることを筆者は強調しているけれども),読者の実存や経験をも物語の動力に変えて,一種の環境を作り出します。

もっとも,こうした方法論そのものについては,あたしが知っている限りでも,安部公房がやっていることだったりするのでした。このサイトでもちょっと書きましたしね。

一方で,作品は「箱男が書いた(とされる)ノート」という形式で「書かれて」います。箱男の存在を推知しうる証拠物件は,唯一これだけ。当然のことながら証拠物件は「見られる」ためにあるわけで,「見る主体」ではありません。作中,《書いているぼくと 書かれているぼくとの不機嫌な関係をめぐって》以降では,ストーリーが急展開して読み手は大いに翻弄されるわけですけれど,最後になって感じるのが,読者自身が箱男だということだったりします。

qune: 箱男のリアリティに見る透明な視線

ただ,本書で問題にしているのは,こうした文学批評の対象である「作品」を評価することではありません。問題は,作品を評価するための「地平」です。そんなもんで,こゆ表現や構成は前にもやってる人がいるんだぞ云々,とかいった史的な(あるいは作品自体にまつわる)話は,それはそれで「ヘェー」なわけで,本旨とはあまり関係がない。そして,言うまでもなく,本書が目指している地平は,言文一致が素朴に「現実」を写生すると信じ,これを前提としていた評論とは別の地平です。そうした地平を求める試みとして,本書は重要な位置を占めているんじゃないかと思います。

一方で,あたしがここで問題にしたいのは,本書においてどうしてそういう読みが必要なのか,ということです。この点,本書では,新しい解釈の必要性を,「ポストモダン」あるいは「データベース」といった概念で説明しています。けれど,あたしゃその説明に(違和感とまでは言わないものの)どこかしら嘘臭さ(失礼)みたいなもんを感じてしまうんですね。んでもって,それはおそらく,メタ視点を持つ作品に対して,さらに上位の(メタ視点の)位置から評価を行なっているかのように読めることがあるからなんだと思います。

誤解の無いように付言しておくと,これはメタ視点による批評について「エラソーだ」とか「何様だ」とか言っているわけではありません。そういう話はかなり幼稚なネタなんだと思う。そうではなくて,「ポストモダン」とか「データベース」といった概念そのものが,意識的にせよ無意識的にせよ,オタクの文脈(解釈方法,読み方,考え方)に織り込まれてしまっていると思うわけで,そうした中でいくら「ポストモダン」とか「データベース」といった「概念」を援用したところで,結局無限に滑っていってしまうんじゃないかと思うわけです。

オタク趣味なるもんは,もともと(……とか言うとまたアレなんだけれども)徒党を組んでどうこうする,とか,全員の合意の下にあれこれするとかいった類のもんじゃありません。つまるところ,オタク趣味なるもんは,極めて「私的なもの」ということです。前回と前々回のエントリで,あたしゃオタク趣味は共有されない旨を強調したつもりなんですけれど,それは結局そういうこと。オタクの自己言及は,いわば自分を客体化することなわけで(「○○が好きな私」「○○趣味の私」),その中に「データベースを援用する私」であるとか「ポストモダンに生きる私」が織り込まれてしまう,ということです。

んでもって,当然のことながら,これは特定の作品に対する評価についても「『○○』という作品をほげほげに解釈する私」の自己言及があるはずです。つまり,「データベース」の概念は,メタ視点に立っているように見えて,実は「ほげほげに解釈する私」の「ほげほげ」と同列にあるに過ぎないんじゃないか,と思えてしまうわけです。一旦,オタク的な文脈に織り込まれてしまった概念は,私的な世界の中で,すぐさま相対化されてしまいます。つまり,ある一時点では,「データベース」なる概念が有効に作用することもあるだろうけれども,それがオタクの実存に織り込まれてしまったら,それはそれで他のオタク的言説とさほど変らない,「私的なもの」として消費されてしまうんじゃないか……と。

私的な評価は,私的な世界で行なわれているがゆえに,すべて相対化されてしまいます,庵野氏がエヴァンゲリオンの解釈について,どれほど「そんなつもりで書いたんじゃねー」と叫んだとしても,それすら私的な「世界」の中では相対化されてしまう。オタクと呼ばれる人(あたしも含めてですが)は,そうした「読み」をしていると思うんですね。

前掲引用の「箱男のリアリティ……」は,そうした私的趣味の視線の集まりが,どうやってコミュニケーションを取り,市場を作り,価値を形成しているのか,といった話だったのでした。箱男の世界は,「書かれたもの」であるノートにしかなかった。じゃあ,私たちの「世界」は……?

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