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約束を意識するときは約束が破られる直前

2007年12月24日

直接は関係ないんですけど,C型肝炎訴訟のあれこれで,つらつらと思ったこと。もうこれは,法的な問題というよりは,純粋に政治の問題なんだろうな……と。

行政的には司法判断を超えた範囲の薬害患者を救済することはできない,みたいな言い分があって,一応法的判断を尊重した論拠を採っています。行政は司法判断を無視(軽視)するときもあれば,尊重するときもあるわけで,その態度そのものが法治主義的な態度の対極にある気もするんですけど(従う法とそうでない法を,自身の主導で選り分ける点で),論拠としては多分成り立つんだと思います。ともあれ,いずれにしても,ここで国民的にも行政的にも非常に危険だと思うのは,こうした問題が「契約」を想起させてしまう点です。契約は,破棄される直前にもっとも強く意識される(多分)。

ここで,「契約」というのは,民事法上の契約ではありません。政治的意味での「社会契約」です。

昔の偉い人は,社会契約が果たされないとき,人民は革命権を行使できる,なんて言っていたけれど,そういうマッチョで汗臭いことは多分起こらない。何が起こるかっつーと,まったりと,法が軽視されていくんだと思います。NHK 受信料の不払いみたいに。あたしが危険だと思うのはこの点です。

あたしゃ一時期前から法の倫理的なあれこれを考えるのをやめちゃったから(※このサイトでも書いた),法が軽視されることそのものについて,価値的なあれこれがあるわけじゃありません。価値的というのは,「麗しき遵法精神」とかそんなようなもん。けど,「法的なもの」(制度的・行政的ひいては社会的)の枠から外れてしまった生がどんなあり方をするのか,それがいいものなのかも含めて,複雑な心境になってしまうというわけです。一方で,現実的な解として,そうした「降りる自由」は(政治・社会的に)保障されているとも思う(※原義を敷衍して使っています)。

法なるもんは,なんであれ,ある種の価値(正義ともいう)を多かれ少なかれ象徴するもんだったりします。ある被治者が,特定の社会契約=価値体系から降りる方が生き抜くための合理的な手段だと「発見してしまった」場合,それを覆すのは難しい。その意味で言えば,治者には契約の存在を意識させない権力の運用が求められるんじゃないか,とも。契約は破棄される直前に意識される,というのは,なんとなくそんな感じの話。

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