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うわなにをするやめくぁwせdrftgyふじこlp ―― 「声」としてのネット言説

2008年02月03日

ネット,特に 2ch 界隈で使われる言葉に,「うわなにをするやめくぁwせdrftgyふじこlp」ってな定型表現があります。「うわなにをするやめr」とか「うわなんだおまえやめくぁwせdrftgyふじこlp」とかいったバリエーションもあるみたいですけれど,おおむね内容は同じ。書いている(※今はとりあえず「話している」のではなく「書いている」ことにしておく)最中に,物理的に妨害を受けたことをほのめかしています。何かやばいことを書こうとしたけれど,書けなかった,みたいな演出です。

ただ,この表現,少し分解するとちょっと変なところがあるのに気がつきます。書き言葉と話し言葉がまぜこぜになっているんですね。

まず,「うわなにをするやめ」の部分は,自然に考えると話し言葉です。どうしてかというと,物理的な妨害があるときに,「うわなにをするやめ」と「書いている」のは不自然だからです。演出としては,「話している」最中に咄嗟に出た言葉と解釈する方が自然です。この点で,「うわなにをするやめr - 思いて学ばざれば」では,こうした表現が,筒井康孝の作品と似ている旨分析されています。けど,筒井氏の作品には「うわなにをするやめ」に相当する部分がない。突然「文章」が途切れることからみて,純粋に書き言葉なんだと思います。

一方で,「くぁwせdrftgyふじこlp 」の部分。これは断末魔の表現ということになっているけれど,書き言葉なんだと思います。というのも,「くぁwせdrftgyふじこlp」なんて発音する(声にする)ことができないから。「書くこと」でしか表現できません。「くぁwせdrftgyふじこlp 」は断末魔の叫びであることを指示(表現)しているだけで,本当にそう発音する必要はない,といってもいいかもしれません。

で,ですね。面白いと思うのは,話し言葉と書き言葉がごたまぜになることで,文章全体が話し言葉として語られていることが強調される点です。「うわなにをするやめ」の部分が話し言葉だとすると,それ以前の部分も話し言葉として語られていると考えるのが自然です。その直後に,「くぁwせdrftgyふじこlp」なる,純粋に書き言葉としてしか「表現」できない箇所が現れることで,その他の部分の話し言葉性みたいなもんが強調されると思うわけです。

どうしてこんなことにこだわるのかというと,ネットの現実感を考える上で,語られている言葉が「話し言葉」なのか「書き言葉」なのかといったことは,案外重要なんじゃないかと思うからです。というのも,話し言葉と書き言葉は,「一般性の責任」という点でまったく異なる価値があると思うから。「一般性の責任」というのは,ここで勝手に使っている言葉で,不特定多数の人間に理解できる(一般的な)言葉で表現せよ,と命令するもののことです。書き言葉は一般的なものでなければならないのに対して,話し言葉は主観的なものでもかまわない。現に,「うわなにをするやめ」の部分は,具体的に何が起きているのか,あるいは何を示しているのかについて,ほのめかすだけです(最近は「ふじこ」で代用されていることからも分かるように,記号化されているところもあるけれど)。

例えば,自分が運営しているウェブサイトを「家」に喩えたり,語り手の人格を問題にする言論を見ると,このことをよく理解することができます。書き言葉が負っている「責任」からは程遠い場所にあります。声として語られるネット言説は,書き言葉とはまったく異なる現実感の中にいるんじゃないか。んでもって,そうだとすると,これは文化圏とかいった話とは次元が違うと思うわけで,同じ尺度でもって評価することができない話なんじゃないかと思うわけです。どっちかの尺度で評価すると,必ず他方が劣位に置かれる仕組みになってしまう。

もうひとつ思うのは,主観的な「声」も繰り返し使われて定型表現になることで,書き言葉の責任に組み込まれていくということ。なんとなく,書き言葉が「責任」という網を持って,話し言葉を追っかけているように見えます。

「うわなにをするやめくぁwせdrftgyふじこlp」は,もう網にかかってしまったか?

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