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今日読んでた本 - 新現実vol.5

2008年02月29日

新現実 vol.5 が出ていたので,行き帰りにつらつらと読む。

新現実vol.5
新現実vol.5
posted with amazlet on 08.02.28
大塚 英志 東 浩紀 柄谷 行人 西島 大介
太田出版 (2008/01/31)
売り上げランキング: 7040

この中にある「『公共性の工学化』は可能か」で,大塚英志氏と東浩紀氏のかみ合わなさ加減がおかしくて笑ってしまいました。最初っから最後までかみ合わない。

公共性の議論に関する限り,あたしゃ東氏の立場にかなり近いもんで,興味深く読ませてもらいました。「公民たれ」とか「コミュニケーションせよ」とかいった言説には,アンチというよりも,むしろ何とも言えない胡散臭さを感じてしまう。ディスコミュ上等。

東氏の場合,「無限に広がる隣人とコミュニケーションを取るのは物理的に疲れる」という話が,公共空間を相対化する主たる動機になっているようです。つまるところ,「(大文字の)公共性」なる概念・理念は,近代的な技術基盤という「事実」から事後的に位置づけられたものであって,下部構造による抑圧の結果生まれた概念である,と……云々。ネットのような技術基盤が公共空間を必要としなくなった場合,人は安易に「公共性」(コミュニケーションせよ)の理念から降りちゃうんじゃね?それを擁護しようよ,みたいな具合です。

あたしゃこの考え方におおむね同意していて,たしかにそうした側面はあるんだと思います。けど,個人的には,考え方の好みとして,「現代の生き難さ」みたいな議論は避けた方がいいんじゃないかと思っていたりします。あまりにウェットで。

一方で,大塚氏にいわゆる「公共性」概念ってのは,大塚氏が改めて口にするほどでもない,一般的な公共性論です。「公民たれ」「コミュニケーションせよ」を肯定しつつ現状を嘆くという論旨に,(大枠として)新しいもんはありません。まぁ,新しけりゃいいってもんでもないんですが。

あたしがこの議論に胡散臭さを感じるのは,「コミュニケーションが相互理解を可能にし,ひいては社会・人生を豊かにする」といった,目標設定そのものが荒唐無稽に見えるからです。まずもって,コミュニケーションで相互理解が可能になるのか。むしろ,相互理解が可能になったことを「事後検証」して,「コミュニケーション」と称しているんじゃないのか。相互理解が可能になる,といった事態は,歴史的かつ政治的な「事実」に過ぎないんじゃないのか。つまるところ,コミュニケーションというのは,相互理解の言い換えであるのと同時に,当事者の権力関係の別表現に過ぎないと思うわけです。

したがって,そのコミュニケーションを可能にするために「公民たれ」とする命令についても,「特定の権力関係に参画せよ」という以上の意味を持っていない。近頃流行りの「KY」が,「空気読める」ではなく「空気読めない」と不自然な否定形になっているのも,これが「空気」(コミュニケーション)を支配する権力の側から発せらる命令だからなんじゃないか……と,つらつら。東氏は,こうしたあれこれを政治的な議論に還元することを嫌っているようですけれど,あたしにとっては「生き難さ」のようなウェットな議論よりも説得的だったりします。

ともあれ,このかみ合わない対談は,それだけでも見ものです。なんなだろ,この空気。

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