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本日のつれづれ - 女性化願望としてのオタク(その1.5)

2008年03月05日

今さら……とかいうもんでもないんだろうけれど,『網状言論F改』を読んでいたところ,ちょっと前のエントリと関連する話があったので,メモ。

網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ
東 浩紀 斎藤 環 竹熊 健太郎 永山 薫 伊藤 剛 小谷 真理
青土社 (2003/01)
売り上げランキング: 59095
おすすめ度の平均: 3.0
1 大法螺吹きまくり
3 オタクのパースペクティブ
4 難解な話を わかりやすく

本書は永山薫氏の「セクシュアリティの変容」より。

これは八〇年代末期から囁かれてきたことですが、エロ漫画の作者、読者というのは実は女の子になりたいんじゃないかということがあるんですね。その昔ベテランのエロ漫画誌編集長と話していた時に、「彼ら(作家・読者)は本当は何になりたいんだろうね」と僕が言ったのに対して、「女の子になりたいんじゃない」と言われて、「ああ、そうだよね」と納得したことがあったわけです。ところが、当時の私は、いまほど切れ者でもなかったので(笑)、これは単にマチズモに疲れた男の子たちの脱出願望としての、女性化願望だと思ったんです。確かに、その要素もあるんですが、それだけではなかった。むしろ、描かれている「少女」を自分のヴァーチャルな身体として捉えているのではないか、ということです。これは八〇年代前半のロリコン漫画以降に顕著に見られます。汗臭い男の身体よりも、可愛い少女の身体のほうが、中に入るには気持ち良さそうなんですね。

「セクシュアリティの変容」『網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ』(永山薫,青土社,2003年,p52)

本文から明らかではないんですけれど,「マチズモに疲れた男の子たちの脱出願望」というのは,マチズモに囚われている男として(外側から)女の子を見る,という意味なんだと思います。で,それよりはむしろ女の子として女の子になりたい,いや,もっと直截に言えば,女の子になっている,と……。ちなみに,「中に入る」ってな表現は,まるで着ぐるみみたいに,同一化と対象化を使い分けている(脱着している)側面がよく表現されていて,なにげに名表現。

で,自分の話に近づけると,前のエントリで書いた女性化願望というのは,もっと政治的な意味だったのでした。非-権力あるいは脱-権力としての女性……と,言ったような。この点では,「マチズモに疲れた男の子」の視点にむしろ親しみがあります。岡田斗司夫氏は,マッチョな体系に対して,同じくマッチョな反-権力でもって対抗している点で,なんなんだろうなあ……とか思うわけです。

マイナーな領域がマイナーであるためには,世間様(メジャー)の存在が不可欠です。マイナーであるということは,対抗するものとしてメジャーを前提にしていると思うんですね。そうした,相互依存というか共犯関係というか,ともかくそんなくねくねな感じが,あたしには奇妙に見えて仕方がない。これは別にオタクにだけ言えるもんじゃなくて,例えば中二病の症例として挙げられているような「クラスのみんなが聴かない洋楽を聴く」みたいなもんでも当てはまります。お前はクラスのみんなが聴かないから,その洋楽を聴いているんでねいのかい?と。ひとりぼっちになっても,その曲を聴き続けるのかい?と……。ひとりで中二病なだけなら無害だけれども,他人を動員するのはどうなんでしょ。

と,そんなこんなで,あたしが作品(というか作品の感想・批評)に対する断定的な批評を評価しないのは,こうした非-権力(非-体系)的なものに対して,マッチョに「体系」を与える点が気に食わないからだったりします。この点で,女性としてのヴァーチャルな身体を得た批評がありうるのか,については,その道でご飯を食べている人からしてみると,深刻な問題になるんでしょうけれど,基本的な態度としては,ともかくそんな感じ。

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