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ドアラ本を読んでキャラクターのリアリティとかつらつら

2008年03月14日

少し前に読んでみました。中日のキャラクター本が,横浜の本屋で平積みになっているのはどういうことだ。

ドアラのひみつ かくさしゃかいにまけないよ
ドアラ
PHP研究所 (2008/02/21)
売り上げランキング: 31
おすすめ度の平均: 5.0
5 笑いあり涙あり
5 深くも浅くも楽しめます
4 コアのファンにとってはたまらない1冊です。

あたしゃ横浜ファンなので,ドアラなんて知らなかったし,ドアラがどうなろうと知ったこっちゃないんですけれど,結局買っちゃいました。買った決め手は,ドアラのキャラクターというよりは,「かくさしゃかいにまけないよ」のサブタイトル。この文句は強烈だ。もっと正確には,「『かくさしゃかいにまけないよ』とつぶやくドアラ」のイメージが強烈。

多分,キャラクターを社会的な問題(時事ネタ)の当事者にする方法は,キャラクターにリアリティを与えるのにとても有効なんじゃないかと思ったりします。で,それはきっと,キャラクターの立っている場所が,受け手の延長線上にある,と思えるからだ,と。

一方で,これをキャラクターの側から見てみると,それは,キャラクターの延長線上に受け手がいるということでもありそうです。仮に,キャラクターが「虚構」の側にいるもんだとした場合,キャラクターと受け手が地続きになることで,受け手の現実が「ずらされて」しまう。この「ずれた現実」が「本当の」現実なのか,みたいな話は,個人的にどうでもいいことなので措いておくとしても,キャラクターと受け手が地続きになる(少なくともそう見える),ということは,キャラクターとのコミュニケーションの可能性が開けている(ように見える)ということでもあると思うんですね。

キャラクターと受け手の関係は,同一化であるとか対象化であるとか,はたまた寄り添う関係であるとか,いろいろと表現されるわけですけれど,ドアラ本を読んでいてなんとなく思うのは,上の表現が一般に,キャラクターに対する abuse を基礎に置いているんじゃないか,ということだったりします。キャラクターは何かを私に与えるものであって,私がキャラクターに何かを与えるわけではない。そこにコミュニケーションなんてもんはないわけで,あえて乱暴な言い方をすれば,キャラクターなるもんは,「私」の快楽のために一方的に収奪されることを本分とした存在,といったところなんだと思います。

そうしてみると,受け手である私とキャラクターが地続きになる,ということは,つまるところ,そうした一方的な収奪の特権を差し出す代わりに,「コミュニケーション=リアリティ」の可能性を取得することのように思えます。もちろん,実際にキャラクターとコミュニケーションを取ることはできないわけですけれど,そうであっても,「ずれた現実(感)」を享受することはできる。ドアラの生々しさは,首から下が生身であること(だけ)に由来しているわけじゃないんじゃないかなあ……と,つらつら。

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