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「囚われの聴衆」という考え方についてつらつら

2008年04月05日

蘇民祭のポスターは NG だけれど,小島よしおはアリという不思議な空気。この違いはどこにあるんだろう,と,さっきふと思いました。おそらく,この違いは,「囚われの聴衆」の話にヒントがありそうです。

囚われの聴衆というのは,バスの車内や駅の構内のような公共空間で,見たくないものや聞きたくないものを無理矢理見させられている(聞かせられている)状況のことをいいます。人格権の内容として,「見たくない物を見ない、聞きたくない音を聞かないといった類の自由」があるとした上で,裁判にまでなったのでした。

つまるところ,小島よしおは,見たくなけりゃ見なくていいところにいるけれど,蘇民祭のポスターは駅を利用する人がみんな見ることになるもんだから(囚われの観衆といったところか)NG と……。それくらいしか区別が付かん。

で,問題だと思うのは,「聴衆」が誰を指すのか,といったところ。この「聴衆」なる言葉は,明らかに特定の個人を指差すものじゃないし,特定の個人にあてはめること(「『聴衆』に当たる」と判断すること)ができる概念でもありません。なんだか分からない抽象的な,けど「心の静穏」を侵害されうる「聴衆像」なるものがあって,その人(のようなもの)を傷つけないようにしなくちゃいけない,とかいった話だと思うんですね。

結局のところ,この「聴衆」なるもんは「公共性そのもの」だと思うわけで,そうであるからこそ,一審の判断も「一般乗客の嫌悪感の程度」とかいった基準にならない基準を参照せざるを得なかったんじゃないか……と(まぁ,よくある話なんですが)。「一般乗客」なんて「人」はいない。んでもって,公共性にかなっているから公共性に適合している(受忍限度の範囲内にある),というのは,同語反復に過ぎない。

おそらく,こうした抽象的な人間像を先取りして尊重(警戒・考慮)することが,「空気を読む」ことなわけで,政治(理屈ではない権力関係)が開始される場所なんだと思ったりします。つまり,蘇民祭は政治的に漂白されなかったから NG だったんだ……と。まぁ,漂白されちゃったら,「祭り」にならないから,それはそれでよかったのかもしれませんけど。

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