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女性のミソジニー的態度とオタクの嫌オタク的態度は似ている

2008年04月10日

紀伊国屋書店が無料配布している冊子で,「scripta」ってのがあるんですけれど,そこで上野千鶴子氏が「日本のミソジニー」という連載を書いています。ちなみに,「ミソジニー」というのは「女性嫌悪」のこと(参考:ミソジニー - Wikipedia)。

紀伊国屋書店 scripta no.6

リンク先のバックナンバーでは,今のところ第五回までしか出ていないので,出典は紀伊国屋書店でもらってくるしかないんですけれど,今回(第六回)の「女のミソジニー/ミソジニーの女」が面白かったのでメモメモ。

女がミソジニーを自己嫌悪として経験しないですむ方法がある。それは自分を女の「例外」として扱い、自分以外の女を「他者化」することで、ミソジニーを転化することである。そのためには、ふたつの戦略がある。ひとつは特権的なエリート女、男から「名誉男性」として扱われる「できる女」になる戦略、もうひとつは、女というカテゴリーからドロップアウトすることで女としての値踏みから逃れる「ブス」の戦略である。いわば、「成り上がり」の戦略と「成り下がり」の戦略、といおうか。

「女のミソジニー/ミソジニーの女」(上野千鶴子,紀伊国屋書店,scripta no.7,2008年,p33)

記事の冒頭なんですけれど、かなりウケた。

もう少し深読みすると,成り上がり戦略にしても成り下がり戦略にしても,これらはあくまで,ミソジニー的な自己嫌悪を回避するための戦略ですから,反対に「女としてのおいしいところ」はしっかりかすめ取る,のかなーとも……。どうしてかというと,「例外」戦略そのものが,差別構造を維持・強化・反復するものだから。

この「例外」戦略は社会的弱者に対して、いたるところで使われる。(snip)特権的な「例外」を産出することで、差別構造は無傷のまま、再生産されつづける。

「女のミソジニー/ミソジニーの女」(上野千鶴子,紀伊国屋書店,scripta no.7,2008年,p34)

で,オタクの話。今時はオタクの弱者的な要素が薄らいでいるようで,実感のない向きもいるかもしれませんけど,一昔前は,自分を「他のオタク」の例外として特権化する態度が普通に現れていたんじゃないかと思います。それは,究極的には,オタクの自己言及的な態度にある。自分自身を対象化し「嗤う」ことで,現在の自分を例外化し特権化しようとする(もちろん,このエントリもそうなんですが……と,自己言及)。

引用によると,女性の場合は,ミソジニー回避の戦略として例外化があるわけですけれど,オタクの自己言及はむしろ本質なんじゃないかと思います。つまるところ,「オタク」なる何かわけの分からん概念があって,それを対象化して「外部から」嗤っているのが,本当の意味での(とかいうとアレなんだけれども)オタクだ……と。オタクの主体は「オタク」なるものの内部にいるわけではなくて,その外部にいる。空っぽの「オタク」なる中心を見つめている,ドーナッツの形状が思い浮かびます。稀にドーナッツの中心に立って,テレビに出ちゃうようなオタクさんもいるようですけど,そういう「ベタなオタク」は,対象化された後の(嗤われた後の)オタクなんじゃないか,と思ったり……とゴニョゴニョ。

オタクの場合,「女性」や「日本人」のような「社会的地位」とは微妙に異なっているので,引用にそのまま当てはまるわけじゃないけれども,マイノリティのお作法としてよくあるね,とかいった話。

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