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「病気にでもなんないと毒のひとつも吐けねーよ」と嘯いてみる

2008年05月15日

こちらの話を読ませていただいて……。この前書いた話を思い出してしまった(qune: 本日のくだらん本 - なぜ、できる人から辞めていくのか?)。病気だって。クリリン,クリリン。

「被害者意識」というマインドが含有している有毒性に人々は警戒心がなさすぎるように思える。

以前、精神科医の春日武彦先生から統合失調症の前駆症状は「こだわり・プライド・被害者意識」と教えていただいたことがある。

「オレ的に、これだけはっていうコダワリがあるわけよ」というようなことを口走り、「なめんじゃねーぞ、コノヤロ」とすぐに青筋を立て、「こんな日本に誰がした」というような他責的な文型でしかものごとを論じられない人は、ご本人はそれを「個性」だと思っているのであろうが、実は「よくある病気」なのである。

(snip)

自分の不幸を代償にして、自分の仮説の正しさを購うというのは、私の眼にはあまり有利なバーゲンのようには思われないが、現実にはきわめて多くの人々がこの「悪魔の取り引き」に応じてしまう。

被害者の呪い (内田樹の研究室)

それにしても,これは言っちゃいけないことだよなぁ……。というのも,弱者がどうとかとか,病気がなんとかとかいった,放送禁止用語的な話とは別に,こういう理屈は突き詰めちゃうと,何も語れなくなってしまうから。概論として弱者的なコダワリを病的だと評価する分には,「まぁそうかもね」と思うけれども,じゃあどこからがコダワリなのさ,とかいう話になると,その境界はかなり微妙だったりします。

んでもって,そうした微妙な場所にいる「言葉」は,「弱者メソッド」であるとか「被害者のこだわり」だとかいった具合に振り分けられるわけですけれど,そこには必ずといっていいほど権力的な契機(振り分ける特権を持った人)がある(こういう断定にも弱者的要素を見出す人はいるだろうか)。内田氏がよく使う文型である「○○な言い方をする人は□□な人だ」とする断定に,権力契機がないと言えるだろうか,と。

あるいは,こうも言えるかもしれない。

「全ての政治的権利申立て,また,全ての政治的権利の正当化は,弱者あるいは被害者のみからなされる。」

自分が不遇であることの告発や,どこかの国の戦争責任論はもちろんとして,地球環境保護の「主張」にしたって,公共マナーを守るべしな「主張」にしたって,つまるところは,被害者としての立場を前提にしないと,主張できない。なぜなら,権利というのは,侵害されたときに初めて立ち現れるものだから。何もないときに,権利主張の契機なんてもんはない。たまにおせっかいな連中が,他人を被害者・弱者に見立てて,借り物の権利主張をすることもあるけれども,それにしたって,誰かが被害者または弱者であることの主張を前提にしてしまっています。

つまり,「病気」にでもなってないと,政治的な議論なんぞできないよ,ということです。

一方で,ある政治的言論(権利主張)に対して,それって弱者病(←今作った)じゃね?とかいった具合に名指すことは,単純に,「あなたの主張には不同意で,共感もできませんよ」ということを,(自分の責任ではなく)主張者の責任において,拒否する旨主張しているに過ぎません。こういった態度に固執することも,ある意味で病的なんじゃないか,と。精神分析なんか始めちゃったら,なおさら権力性が増します。

「被害者と指摘メソッド」とか,「名付けて」みたらどうだろう。

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