Entry

弱者メソッドよりも弱者メソッドに対するメタ視線の方が有害な理由

2008年07月04日

弱者メソッド なる言葉があります。弱者であることを理由にして議論の主導権をにぎるテクニックなんだそうな。ただ,この言葉って,分析的にはなんらかの意味があるのかもしれないけれど(よく分からんが),実践的には単なる議論回避の方便にすぎねんじゃね?とか思ったりします。

形式的な「語り口」でもって議論をメタ方向に持っていく,つまり,議論あるいは議論のあり方そのものを議論するってなことは,よくある議論回避のテクニックなわけですけれど,結局こういう話は「当該議論」においてなんの役にも立たなかったりします。そりゃそうですよね。議論に対する議論で得られる結論は,「当該議論の善し悪し」であって,当該議論のお題目とはまったく次元が異なります。

事実,「弱者メソッド」なる命名をはじめとした,メタ視線からの「名指し」あるいは「指差し」ってのは,議論の性質・特徴を示すことはできても,それでもってどちらの内容が妥当であるか,論拠を示すことができません。当たり前ですけど,「弱者メソッドを使っているからこいつの意見は不当だ」とかいった意見があるとすれば,そには飛躍があるわけで,これ自体合理的な議論ではありません。

結局のところ,ベタな議論にメタ視線持ち込むってのは,ひっそりと論点をずらすことなわけで,「ベタに」議論している当事者からすると,「だから?」という疑問しか浮かばなかったりします。だって,政治ってそういうもんでしょ?と……。どこかに,誰もが納得するような「合理的な議論」なるもんがあると信じてやまない人にとっては,特別の意味があるのかもしれませんけど,論点をずらすのはよくないですね。そゆのは外でやっときゃいい。

と,ここで,上の話へのアリガチな反論(言いがかり?)も考えてみることにしましょう。まず考えられるのは,「この文章自体メタ視線だろ」ってなもの。たしかにメタ視線ですけど,これは議論についての議論そのまんまだから,別に問題はないんだと思います。問題なのは,ベタな議論にメタ視線を持ち込んで,自論の論拠にすること。

もうひとつ考えられるのは,「弱者メソッドを使って議論を左右するなんて卑怯じゃないか!それに反論できないのか!」というもの。これもなんだかメタとベタを履き違えていると思います。

というのも,もともと,「弱者メソッド」なるもんは,言論の属人性(言っている人の立場でその重要性が決まる)のように,言論外の要素を政治対立に持ち込むことを批判したものなわけですけれど,「弱者メソッド」を持ち出して言論外(メタ視点)で空中戦をやらかすのは,自己矛盾だと思うからです。あたしゃ,言論の正当性・合理性は言論内で解決するとは思いますけれど,政治的な優劣が言論外の要素で左右されることも認めます。これに対して,言論内の合理性だけでもって,政治的にも勝つといった戦略を取った人が,メタ視線を持ち込んで空中戦をかますのは,立場として一貫していません。

「弱者メソッド」がベタな議論に持ち込まれる契機は,その主張者が言論内では合理的である(と思っている)も,政治的に敗北している(しそうな)状況なんだと思います。けど,こういうときに「合理的ではない弱者メソッド」と名指したところで,負け犬の遠吠えにしか映らないばかりか,自身の議論も「ベタにメタを持ち込む」という論理飛躍をきたしている点で,二重にイタい。まぁ,なんつか,もちっとマシな戦略を立てた方がいいんでねいかい,と。

Trackback
Trackback URL:
Ads
About
Search This Site
Ads
Categories
Recent Entries
Log Archive
Syndicate This Site
Info.
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
Movable Type 3.36
Valid XHTML 1.1!
Valid CSS!
ブログタイムズ

© 2003-2012 AIAN