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この前読み終わった本 - 『モダンのクールダウン』

2008年07月12日

なんか最近本を読む速さが遅くなってる気がします。稲葉氏の文章は,あたしの語り口と似通っていると勝手に思い込んでるんですけど,それにもかかわらず時間がかかりました。なんでだろう。

モダンのクールダウン (片隅の啓蒙)
稲葉 振一郎
NTT出版
売り上げランキング: 236389
おすすめ度の平均: 3.5
4 <公共性2.0>
3 迂遠あまりにも迂遠。

Amazon にはよく分からないレビューがあるけれども,本書の場合,こうした議論がどうして起こるのか,といったバックグラウンドをある程度共有してないと,なかなか理解するのが難しいんじゃないかと思います。まぁ,あたしが理解してるともいえないんですが。

「ポストモダンとは何(だったの)か」といった冒頭の問題提起を見ても分かるとおり,本書には「東浩紀氏への応答」といった側面があるんだと思います。しかし,本書が主として問題としているのは,東読解ではない。それは,ポストモダンと呼ばれる状況,すなわち,「批評・判断の枠組み」を再検討することです。東氏の『動物化するポストモダン』も,実のところは批評のフレームワークを再検討する,いわばメタ批評論だったわけですけれど,あたしも含めて,アリガチなオタク論として読んでしまったところがあったわけで,ちょっと反省していたりします。

批評の枠組み,あるいは政治運動のフレームワークとしての「ポストモダン」なる状況は,よくよく考えてみると,奇妙なところがあるわけで,多方面から批判の対象になっていたりします。有名なところでは,『知の欺瞞』とか。

「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用
アラン・ソーカル ジャン・ブリクモン 田崎 晴明 大野 克嗣 堀 茂樹
岩波書店
売り上げランキング: 47331
おすすめ度の平均: 4.5
5 見事なまでの「中庸」的論理の書。おフランスかぶれの解毒剤として!
1 分からないですねえ…
5 デタラメな知識によって複雑に見せかけられているだけの陳腐な現代思想
4 常識に過ぎないことが響くことに
5 Intellectual bluffing, nay, intellectual charlatanism

『知の欺瞞』は,「数学者がやってみせた動員本」みたいな側面があるので,批評のフレームワーク「そのもの」に対する本質的な批判にはなっていないと思っていたりします。ここで動員本というのは,人文哲学にコンプレックスやルサンチマンを沸々とさせている,「自称理系人」を動員する本という意味。自称理系人は,Amazon のレビュアーにもたくさんいます。

それにしても,問題となるのは,ポストモダン的状況における「近代の復活」という逆説です。例えば,デリダの脱構築でいうと,これを否定神学的な意味合いで捉えてしまうことに相当します(この立場を本書では「不眠症デリダ派」と称しています)。つまり,否定神学的な意味での脱構築は,近代的構築物から別の構築物への移行(ある権威から他の権威への移行といってもいい(んだと思う))に過ぎないわけで,新しい近代が生まれたに過ぎない……と,云々。

東氏の警戒は,おそらくまさにそこにあると思うわけで,「郵便的脱構築」とは,そのような近代の復活としての脱構築を警戒したものなのだと思います。これは,デリダの『法の力』にも見ることができる。

法の力 (叢書・ウニベルシタス)
ジャック デリダ
法政大学出版局
売り上げランキング: 107155
おすすめ度の平均: 4.0
3 デリダの言う「正義」にはどうも納得できない・・・
5 法/権力への思索

脱構築は、不可能なものの経験として可能である。すなわち、正義は現実存在していないけれども、または現前している/現にそこにある(present)わけでもない――いまだに現前していない、またはこれまで一度も現前したことがない――けれども、それでもやはり正義は存在する(il y a)という場合において、脱構築は可能である。

『法の力』(ジャック デリダ,法政大学出版局,p35)

郵便的脱構築は,否定神学的な形であれ,はたまた別の形であれ,「正義とは」と「声」にしてしまう,つまり現象学的な意味で現前させてしまう,まさにその時点で,すでに近代的(男根ロゴス中心主義的)な暴力の汚染が始まっていることを重視しています。これは批評のフレームワークを考える上で,非常に痛い。なぜなら,批評ってもんが本質的に,その内容を「声」でもって読者に「送り届ける」ことだから。

デリダの「現前してないけれど存在するといえる」というのは,汚染をまぬがれているぎりぎりの場所を指し示している,と。

一方,本書において,稲葉氏は批評または認識の枠組みを,東氏ほど警戒していないみたい。共通の認識枠組み(お約束?)としての「公共性」を,脱構築の中からもひねり出そうとしています。公共性としてのリアリティを多重化する(いくつもあるリアルを認める)戦略を取るとかなんとか……。

あたしゃこの頃,「オタクは孤独になるべきだ」とか言ってるんですけど,それは「公共性」なるもんに根本的な懐疑があるからったりします。念のために言うと,このことは「オタクは社会性をなくすべきだ」という意味ではありません。「孤独になる」というのは,声に出してはいけない,ということです。アニメやマンガを見た時の感動(!)なり興奮なりってのを「自分だけのもの」にしておくには,他人に共有されるべき「声」に出してしまってはいけないと思うわけです。それは,他人の感動を侵害し,自分の感動を他人に明け渡すことになる。

結局のところ,オタクをめぐる声の最たるものは「批評」なわけで,あたしゃそれにも懐疑を覚えています。したがって,脱構築的な意味で批評が可能であるとは(今のところ)思えないし,批評なんてしたところでロクなことにならないと思っていたりします。まぁ,今のところですけどね。公共の言葉を持ちつつも,別種の「個人的な」感動を蓄えておけるオタクってのもいるわけで,それがむしろオタクとしての安全で無難な作法なのかもしれない,と思ったりもするわけですが。

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