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夏の日の思い出から倫理の話をつらつら

2008年08月22日

いまだに思い出す,子供の頃のシチュエーションがあります。大体,季節は今くらいの時期。8月6日9日あたりになると,毎年小学校の体育館がプチ原爆資料館みたいになっていたのでした。「はだしのゲン」の上映会なんてのもあった。別に,広島や長崎とゆかりのある土地柄ってわけでもないんですけどね。

原爆資料館を訪れた方はご存知かもしれませんけど,とにかく刺激の強い写真が多いもんで,プチ資料館もそんな感じでした。で,夏休みでややアッパーだった気分は,あっという間にダウナーモードに。「はだしのゲン」の上映後,小学校のプール解放があったんですけれど(子供はそれを目的に来ていた),「原爆投下後,川(元安川)に飛び込んでなくなった方が多かった」なんて話を聞いた後でははしゃぐこともできず,微妙な気持ちのまま水に浸っていました。

で,ですね,まぁそれはそれでただの思い出で,小学校なり町内会なりの政治的立ち位置とかも,今にして思えばそれなりにあったんでしょうけれど,それもとりあえずどうでもいいです。

なんつかですね。政治的な意図の有無に関わらず,そういった悲しいシチュエーションを提示されたときに,思うことっつのはあるわけで,そゆもんは一定の倫理的な命題の形に落ち着くんだと思うんですね。倫理的命題というのは,例えば「○○しなくちゃいけない」とか「○○であるべきだ」とかいった,ある程度具体的なお題目(行為規範や価値概念)です。で,そういったお題目を内的に形成することが,多分「空気を読む」ということなんだと思うわけです。

夏休みになると,空気を読まなくちゃいけない宿題ってのが出るわけで,例えば読書感想文なんてのはそのうちに含まれるんだと思います。読書感想文は,自由に本の感想を書いていいものではなくて,一定の「正解」があったりします。小学校の作文なんかでいい点を取る子ってのは,作文の技術に長けているというよりも,むしろ,この「正解」を心得ている子なわけで,つまるところ,空気を読むことができる子だった覚えがあります。

今でも,戦争や内戦で負傷した市民あるとか,生まれつき病気や障害を持っている子供のシチュエーションが提示されるわけで,その度に倫理規範を定立するすることが求められます。しかし,そうしたシチュエーションに対して,いちいち内的な規範(倫理的な命題)を定立することは,倫理的に真面目であればあるほどしんどくなってしまう。世の中の不幸を全部自分に背負い込んじゃうっつかですね。そんな感じ。

あたしはというと,この2000年代初頭の不景気で,倫理もへったくれもなくった企業なりえぐぜくてぃぶなりの状況を見てからは,倫理的な命題に拘泥することで消耗することの不毛さみたいなもんを感じるようになっちゃいました。正確には,「公共的な善を達成するための倫理」みたいなもんを考えることの不毛さを感じるようになった,といった方がいいのかな。2000年初頭の前掲面々は,公共的-倫理的なお約束をみずから断ち切った,と理解しています。これは反面,個人についても,「これからは公共的な倫理性について考える必要はないよ」と宣言したとも言える。

もちろん,人助けをすることは悪いことだとも無意味なことだとも思わないし,現にそれっぽいこともしています。けれど,それは公共的な要請から出たものではなくて,あくまでもこちらの「エゴ」でする人助け,と,割り切っているところがあったりします。一般的には,そうした自己満足的な人助けを「偽善」とか言うんでしょうけどね。本質的なエゴを隠すために,公共的な幻想を持ち出すことの方がむしろ質が悪い。こゆことは,自分の意思で,できる範囲ですればいいわけで,個人だけが共同体的な幻想にしばられる必要はない,と思うわけです。

今時は,エコロジーの問題で,地球全体の公共性みたいなもんが復活しつつあるわけですけれど,そういう状況も,個人的には生温かく見守っていたりします。

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