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ナンシー関の毒はやはり芸だったのだなとしみじみ

2008年10月10日

昨日読んでた本。ナンシー氏の本は,続き物として,週刊文春に連載していた「テレビ消灯時間」と,週間朝日に連載していた「小耳にはさもう」があります。大まかに毛色を分けると,前者がテレビの一般論なのに対して,後者は有名人(芸能人)の発言にスポットを当てた話といったところ。個人的には,「小耳にはさもう」の方が好きです。

小耳にはさもう (朝日文庫)
ナンシー関
朝日新聞社
売り上げランキング: 224090
おすすめ度の平均: 4.0
4 重要なのはものの見方
4 時代は「ご成婚」。「新加勢大周」はおすすめ

で,例によって笑わせてもらったんですけれど,ナンシー氏は,自分のコラムが「芸」であることについて割と自覚的だったようで,なんだかしみじみしてしまいました。以下は,デーブスペクターと誌上プロレスをした時の一幕。ちょっと長いですけど,引用します。

私がタレントを見る価値基準は「おもしろい」か「おもしろくない」かの一点のみだ。私はあなた〔引用者註:デーブスペクターのこと〕を「おもしろくない」と非難したのだ。

それにしても、なんで「みんなでセラピー代を要求しようか」とか「今度の件で芸能界の何人かの人に、ナンシー関についてどう思うか聞いたら、みんな困ったように笑ってた」とか、主語を「我々」にしたがるのか。一人で怒ればいいじゃん。テレビに出てるときもいつもそうだけど、何をオドオドしているのだ。「TVに出てくる人を片っぱしから罵ってる醜い深海魚のような人生」「彼女は手当たり次第に罵ることで何かの復讐を続けている」か。

結局、「(こういう原稿を書くことを)ヤメロ」と言いたいらしいが、これは私の生業である。聞く耳持たん。それと、あなたには「片っぱしから罵っている」ようにしか読めないかもしれないけど、それじゃあお金はもらえないのである。自分で言いたくはないが、「芸」なのである、コレも。

『小耳にはさもう』(ナンシー関,朝日新聞社,1996年,p200)

ということで,やはり「芸」なのであった。ちなみに,ナンシー氏の「芸」については,ここでも少し前に書いていたのでした。

おそらく,ナンシー氏の書き方というのは,主観的な第一印象を大事にしておいて,それを客観的かつ中立な視点から批判しなおしたもんなんじゃないだろうか。だからこそ,彼女のコラムは,単純な「好き/嫌い」「おもしろい/おもしろくない」といった印象論であっても,説得力が生まれるんだと思います。反面,大抵の「毒舌芸」(悪いことを単に並べ立てる芸)がイタイ(ナンシー的に言えば「しょっぱい」)ことになっているのは,この「中立」な批判がないからなんじゃないか,と。

もっとも,印象論を第三者的な立場から批判しなおすというのは,なかなかできないことで,どうしても自分の印象を擁護するような(屁)理屈を立てがちだったりします。それならただ,「わたしはなんか嫌い」とか言うだけで十分なんですけどね。それじゃ,芸っぽくならない(芸とは呼べない,とあたしゃ思うんですが)。例えば,よく聞くオッサンの若者論にしても,「結局,なんか気に食わないだけなのね」と,要約できてしまうものがほとんどだったりします。こゆのは芸ではなくて,ただの独り言か政治的なパワーゲームに過ぎない。

ブログ界隈の話を見ていても思うんですけれど,こういう芸を持った人はいるようでほとんどいない。今のところ,「集合知」なんつものも,ただの「好き」と「嫌い」の塊にしか見えなかったりします。まぁ,ブロガーが芸人になる必要もないとは思うんですが。

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