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今日読んでた本 - 『幸福な遊戯』

2008年11月05日

角田光代の作品は『エコノミカル・パレス』以来(読後感:qune: 読書メモ - プライドばかり高い無能)なんですけれど,今回はデビュー作を読んでみました。今ではニート文学なんて言われているけれど,こちらはいろいろな意味で,清々しい。あたしゃ楽しめたんですけど,これは好みが分かれるだろうなあ。本書には『幸福な遊戯』の他に,あと二編入っています。

幸福な遊戯 (角川文庫)
角田 光代
角川書店
売り上げランキング: 231367
おすすめ度の平均: 3.0
3 ほのぼの
3 雰囲気を読むか、中身を読むか。
2 仮想的な自分を通して家族のあり方を問う
5 幸福な・・・
1 期待はずれ・・・

どこに好みが分かれると思うかというと,端的に女性と男性で分かれるんだと思います。女性の方がすんなりと入り込めるはず。いや,より正確に言うと,少女漫画・小説になじみがある人と,ない人で分かれるはずです。本書の全編にわたってそうなんですけれど,レトリックしかり,文体しかり,少女漫画のコマがかなり具体的に目に浮かびます。特に,『幸福な遊戯』は,イディオムがそこかしこにあるので,文脈を共有している人には,かなり入り込みやすい。もちろん,角田氏がそういった文脈に意図的に乗っているかは分からないんですが。

一方で,『幸福な遊戯』のテーマは,設定や表現と比べると比較的複雑なんだと思います。

基軸になっているテーマは,まぁありがちと言えばありがちな,「いつかは終わる青春」みたいなものです。「遊び=遊戯」を卒業して,大人になっていくということ。しかし,ここで問題にしなくちゃいけないのは,「遊び」として位置づけられているモノに対する,主人公の立ち位置です。主人公の姉や,次々に家を離れていくハルオと立人。それに,奇妙な生活をしていることを指摘する立人の自称恋人。彼/彼女らは,遊びを遊びとして認識している(「遊び」を対象化している)。だから,日暮れになれば,「遊ぶのを-やめる」ことができるわけです。しかし一方,主人公だけが,「遊び」と「現実」の境界で浮遊しています。「遊び」に一種のリアリティを感じている,と言えばいいでしょうか。「遊び」を「遊び」として対象化できれば,「やめる」こともできるわけですけれど,「現実」はおいそれとやめることはできません。これは切実です。

これが,本作の主たるテーマだと思うんですね。

本作で主人公の側にいる唯一の人間は,まさしく「うらぶれた道路」に坐り込んで酒を飲んでいる「労働者風の男」です。主人公は,この光景を正視できないわけですけれど,それは,彼らの「遊び」を「遊び」として対象化してしまう(奇妙だと思ってしまう)ことで,自分も自分の生活が「遊び」であると認識してしまうことへの「恐れ」や「否定」じゃないだろうか。現実感を伴った「遊び」の中にいる主人公にとっては,現在の生活(ひいては自分の意思)を否定することにも等しい。

このことは,ハルオが家を出て行ったことに対する,立人と主人公の評価においても,歴然とした差となって現れます。主人公の解釈には現実感がない。

『エコノミカル・パレス』でもそうだったけれども,角田氏は,浮浪者のような,ある意味「逸脱していると評価された人たち」と,「自分は大人であると自認(自称)している人」との境界に,かなりこだわっている気がします。そして,その境界の危うさについて,青年期の「巣立ち」の時期に焦点を当てて見据えている。突き詰めれば,どうやって人は大人になるのか,みたいな話に還元されるのかも。とかとか。

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