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なんとなくメモ - 自意識と承認をめぐるメタコミュニケーションについて

2008年11月24日

もうかなり前から,ブログと自意識の話が出ているのだけれども,この頃思うことに,書き手の自意識というのは,「書き手にとっては」実際のところどうでもいい話なんじゃないかと思えてきました。例えば,「全てのブログは自意識の表明である」とかいった命題にしても,実際そうなのかもしれないし,そうじゃないかもしれない,つか,どうでもいい。

じゃ,自意識の話の何が論点なのかというと,読み手(受け手)における承認の問題なのではないか,と思うわけです。ネット上の自意識を取り巻く力関係は,書き手の自意識の表明「そのもの」にあるわけではなく,主に読み手の問題なのだということ。

言うまでもなく,自意識の表明は,承認欲求と強く結びついています。これは表裏(同値)の関係にあるもので,論理的な推論の関係にあるわけではない。で,読み手は書き手の「自意識を発見」するわけですけれど,これは「承認欲求の発見」することと,同値だったりする。んでもって,おそらく問題なのは,書き手が自意識を表明することそのものではなくて,承認欲求の表明(を見つけたこと)に対する優越感なんじゃないだろうか。ぶっちゃけて言うと,「こいつみんなから承認されたがってるよ!」とみんなの前に晒すことの優越感。承認を求めている人をある程度ハンドリングできる(と,思い込んでいる)優越感と言ってもいい。

もう少し言うと,これは,一部界隈で言われているところの,「優越感ゲーム」の構造と酷似している。自意識の表明を発見すること,指摘することは,つまるところ,相手の承認欲求を発見することと同じわけで,この欲求に参画すること自体,書き手よりも上位に読み手(つまり自分)を置くことに他ならない。んでもって,これは,承認欲求を満たす者(承認する者)として参画する場合であれ,満たさない者(笑いものにする者)として参画する場合であれ,構造的に大きな違いはないのだと思う。

つまり,自意識を表明していると読み手が指摘することは,議論の内容だけでなく,その場のコミュニケーションのあり方についてもメタ化しているということ。

そもそもそう思ったのは,自意識過剰であると指摘することが,議論上「攻撃」または「防御」として,論理的にどのような意味を持っているのか,説明がつかなかったからです。実際,「お前自意識過剰だよ」と指摘することは,議論の内容と関係がないことが多い。つまり,攻撃にも防御にもならない。それは,相手の現在の立場を踏まえた上で,高みから相手を俯瞰する身振りにすぎなかったりする。

んでもって,「自意識過剰と指摘すること」の問題点は,そうした俯瞰の構造,つまりメタ化の構造の責任をうまく読み手から書き手に転嫁している点です。こうしたメタコミュニケーショナルな構造が生まれた責任は,全て「自意識過剰なお前にある」と転嫁できる。これは,議論上かなり高度なテクニックなのだと思います。

つことで,おそらく,書き手の自意識をめぐる問題というのは,掘り起こしてもあまり意味がないのだと思います。なぜなら,上にも述べたとおり,その構造は書き手によってもたらされたモノではなく,読み手によって作り上げられたモノだから。書き手において観察される自意識のあり方なんつもんは,読み手における「俯瞰の作法」によってコロコロ変わるわけで,要するに「自分語り」に等しい(私はこの人をこういう風に読んで優越感を感じています,という表明)。こゆもんは,面白いけど実入りが少ないじゃないか,とか云々。

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