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先週読んでた本 - 『雄羊』

2008年12月03日

デリダとはウマが合う。話すことができてたら,きっと楽しかったに違いない。デリダは「その『テクスト』とウマが合うんだね」と言いそうだけれども。

雄羊 (ちくま学芸文庫)
ジャック デリダ
筑摩書房
売り上げランキング: 104102
おすすめ度の平均: 3.0
4 未生、死後の精神生成則
2 晩年のデリダの念仏

本書は,2003年のハンス=ゲオルグ・ガダマー記念講演を採録したものです。デリダ最晩年の公演ということもあるんでしょうけれど,デリダの最終的な立ち位置が分かった感じがしました。他者と関わること(対話すること),とりわけデリダの場合は「テクストを解釈すること」になるんでしょうけれど,そこに潜む原初的な暴力からどのように逃れるのか,あるいはどのように対峙するのかについて,デリダは始終考えていたのだと思う。

それは,以下の一節からも読み取れる(多分)。ちと長いけれども,引用します。フッサールの話を受けています。

純粋自我のこの絶対的孤独の中で、世界が引き退いたとき、「世界が消え失せている Die Welt ist fort」とき、自我の中で構成される他我は、純粋に現象学的な根源的直観においては、もはや接近不可能なのである。フッサールは、彼の『デカルト的省察』の中で、そのことを認めなければならない。他我は、ただ類比によって、付帯現前化〔=共現前〕によって、間接的に、自己の内部で構成されるのであって、そのとき自己は、もはや超越的な世界がないところで、その他我を担わなければならないのである。そのとき私は、世界が見えなくなるところで、他我を担い、お前を担わなければならない。それこそが、私の責任なのだ。しかしもし担うということが、自分固有の自我論的意識の直観の中で、自己自身の内に封じ込めるということを意味しているとすれば、私はもはや他者をも、おまえをも担うことができない。自己固有化することなしに担う必要があるのだ。担う〔porter〕とは、もはや自己の内に「含む〔comporter〕」こと、封じ込めること、包含することではなくて、まさに私の内部でも、つまり私の外なる私の内で、他者の絶対的超越性を迎え入れるために、他者の無限の自己固有化不可能性の方に向かう〔se porter ver〕ことなのである。

※強調は aian 。

『雄羊 (ちくま学芸文庫)』(ジャック デリダ,筑摩書房,2006年,pp82-83)

例えば,「真理」や「正義」と名指されるモノが定立する公準が孕む潜在的暴力,あるいは,自我論的意識の直観において定立される意味が含む暴力について,デリダは特に過敏になっている。この点,ガダマーは,対話の前提として相互了解のための「善意思」を措定していたわけですけれど,そうした公準を定立することが,そもそも「私の外なる私の内」にある,絶対的他者との「対話」を不可能なものにする。他者との対話は,そうした公準のない,「世界が消え失せている」宙吊りの状態において,また,「他者の無限の自己固有化不可能性」においてこそ,初めて可能になる,おまえを「担う」ことができる。そして,それこそが生きている「私」に課された責任なのだとも。

デリダを読んだ後,毎回感じていることなんですけれども,おそらくデリダの「読み」そのものってのは,哲学や思想ではなくて,「作法」や「態度」それに「身振り」の類なんじゃないかと思っていたりします。それは,至極目的論的な態度なわけで,戦略のようにも思えます。

よくデリダは「哲学を破壊した」とか言われています。それはある意味そうだと思うんですけれど,これがめぐりめぐって,世界の規範なり正義なりを骨抜きにする悪党(相対論者?)みたいな話に及ぶことも。しかし,これはちといきすぎなんじゃないかと思います。デリダほど忠実な哲学マニアもそうそういない。そして,その哲学マニアの目は,「デリダはこういった」とかいうような,哲学的言説に対しても向けられている。あくまでも,態度の問題なんだ……とか云々。

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