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本日の読んでるのか微妙 - 「三十男には輪廓だけになった女が、いちばん危険」

2008年12月10日

こちらから。

性体験に乏しいので、性の専門家もしくは一言家ある方におうかがいします。

(snip)

(2)安倍公房氏の「砂の女」に「二十歳の男は、観念で発情する。四十歳の男は皮膚の表面で発情する。しかし三十男には輪廓だけになった女が、いちばん危険なのである」(P86) とありますが、具体的にどういうことなのでしょうか?

特に私は「四十歳の男は皮膚の表面で発情する」というところに関心を持ちました。これは若さを失うがゆえの若さへの渇望ととらえてよろしいのでしょうか? お教えください。

 性体験に乏しいので、性の専門家もしくは一言家ある方におうかがいします。 .. - 人力検索はてな

『砂の女』は,高校生の時に初めて読んだんですけれど,最近やっと意味が分かってきた小説です。『R62号の発明』とかと比べると,とても分かりづらい。当時は閉塞感しか感じなかったもんで,正直つまらなかったんですけれど,今読み直すと面白い。今時の言葉で言うと,「降りる自由」にいわゆる「降りてしまっている」女と「降りるまい」ともがく男の話,といったところでしょうか。

砂の女 (新潮文庫)
砂の女 (新潮文庫)
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安部 公房
新潮社
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おすすめ度の平均: 4.5
2 あまりピンと来なかった。
5 ざらざら…。
5 高校生の頃、不条理にあこがれつつ、
5 人生の意味、自由と束縛、男と女の問題を
5 比喩。

で,はてなQに対する反応。

(2)吉行淳之介が云えば酒場の艶笑小噺で、野坂昭如なら出まかせのハッタリ、安部公房だと寓話的比喩でしょうね。

この種の小説的比喩は、虚々実々の趣向にかぎり、許されています。

 性体験に乏しいので、性の専門家もしくは一言家ある方におうかがいします。 (1)畑正憲氏の「ムツゴロウ云々記」に「夫婦年を重ねてくると顔形(かおかたち)が相似形に.. - 人力検索はてな

実際に読んで言ってるのだろうか。一般的に安部公房は「寓話的比喩」と言っとけば足りる,というのがあるのだろうけど,この場面は比喩と見るべきか。もうひとつ。

女性は10代から20代のロマンチック(夢見る年頃)から、歳を重ねる毎にだんだん現実的になりますが、男は30代後半から40代でようやくロマンチック(愛情込み)を求めるようになります。スキンシップによる愛情、愛おしさがそのムードへの火付け役になるということです。

 性体験に乏しいので、性の専門家もしくは一言家ある方におうかがいします。 (1)畑正憲氏の「ムツゴロウ云々記」に「夫婦年を重ねてくると顔形(かおかたち)が相似形に.. - 人力検索はてな

女性のリアリティが語られているのは,その通りだと思います。けど,本文はそんなにロマンチックな場面じゃない。

このフレーズが出てくる周辺を少し長いけど引用します。

「歩きましたよ……」ふと、女は、殻を閉ざした二枚貝のような抑揚のない声で、「本当にさんざん、歩かされたものですよ……ここに来るまで……子供をかかえて、ながいこと……もう、ほとほと歩きくたびれてしまいました……」

男は、不意をつかれる。まったく、妙な言いがかりもあったものだ。そうひらきなおられると、彼にも言い返す自信はない。

そう……十何年か前の、あの廃墟の時代には、誰もがこぞって、歩かないですむ自由を求めて狂奔したものだった。それでは、いま、はたして歩かないですむ自由に食傷したと言いきれるかどうか?現に、おまえだって、そんな幻想相手の鬼ごっこに疲れはてたばかりに、こんな砂丘あたりにさそい出されて来たのではなかったか……砂……1/8 m.m. の限りない流動……それは、歩かないですむ自由にしがみついている、ネガ・フィルムの中の、裏返しになった自画像だ。いくら遠足にあこがれてきた子供でも、迷子になったとたんに、大声をあげて泣きだすものである。

女が、がらりと調子を変えて言った。

「気分、よろしいんですか?」

豚みたいな顔をするのはよせ!男は苛立ち、相手をむりやり捩じふせてでも、泥をはかせてやりたいと思った。そう思っただけで、皮膚がけばだち、ばりばり乾いた糊をはがすような音をたてはじめる。ねじふせるという言葉から、皮膚が勝手な連想をしてしまったらしい。いきなり女が、背景から切り取られた、輪郭だけの存在になっている。二十歳の男は、観念で発情する。四十代の男は皮膚の表面で発情する。しかし三十男には輪郭だけになった女が、いちばん危険なのだ……まるで、自分自身を抱くように、気安く抱くこともできるだろう……

※強調はAIAN

『砂の女』(安部公房,新潮文庫,pp85-86)

女は,男を誘惑している。

観念的でリアリティのない理想の女性(本人にとってはリアルなのだが)に発情していた二十歳から,具体的な人間としての女性に発情する四十歳。それじゃ,三十歳は何かというと,自分の意思を投影できる器としての女性,悪く言えば易々と侵襲できる女性に発情する,といったところか。んなもんで,「若さを失うがゆえの若さへの渇望」というほど,深読みはしなくてもいいんでねいかと。三十歳のそれとの対比で挙げられてるだけだし。

ここでの話は,別に男性の性を主たるお題にして語っているわけではなくて,男と女が「歩かないですむ自由」の境界線上で駆け引きしているシーンです。気を許しちゃいけないと分かっているのだけれども,「ねじふせる」という言葉から皮膚が勝手な連想をしてしまう(発情してしまう)とかいった,いわば戦いの場面。男がこの誘惑に負けて「降りて」しまうかどうか,瀬戸際にいるシーン。

つことで,引用を読んでも分かる通り,これはラブシーン(死語)じゃないし,安倍公房の男性論でもない。ちなみに,『砂の女』に登場する男の生年月日は,安倍公房のそれと同じらしいけれども,私小説として読むべきでもない(と,解説にある)。

「歩かないですむ自由」について少し書いておくと,この作品は1962年に刊行されたもので,世間が色々と動いている時期でもあったのでした。冒頭で「降りる自由」という言葉を軽々しく使っちゃったけれども,そうした背景と現在の背景は,やはり違うのだと思います。しいて言うなら,「歩かないですむ自由を求めることから降りる自由」ってのが,今時の「降りる自由」なんでしょうけど,どうなんでしょ。両者を比べながら読むのも,また面白いかもしれません。

『砂の女』。読んでないようだったらお勧めです。あたしも久しぶりに読み直してみようかな。

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