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頭がいいとか勉強ができるとかっつのは割グニャグニャな話なんですよきっと

2008年12月30日

少し遅れて書くけれども,こちらの話。

勉強が出来る=頭がいい

僕はそう思って生きてきた。

でも、そのことを否定する意見が多い。

何故だ?世の中には勉強が出来ない奴のほうが多いからか?

そいつらが勉強が出来なくても自分は頭がいいと仮定なしで信じたがっているのか?

本質的な頭の良さは勉強なんてものに関係ないと「勉強もできない」のに主張しているのか?

理由はよくわからないが、負け犬の遠吠えだろうな。

勉強が出来る=頭がいい?

頭がいいとか勉強ができるってのは,結局のところ,その人の趣味・嗜好なり,思考パターンなりが,歴史的にみて適合している,あるいは適合させるのがうまいってなことなんだと思っていたりする。つなことで,「勉強ができるね」とか「頭がいいね」という言は,いずれにしても「歴史によく適合しているね」ということと同じ意味だと思っているし,どちらもそれ以上の意味はない。

ものすごく俗な例を挙げると,例えばガリレオが地動説を唱えた時に,バカ扱いされた……かどうかはよく分からんけど,とにかく物議をかもしたのと同じで,その時代なり歴史なりに認められるかどうか(適合するかどうか)っつのは,その人の能力だけの問題ではなくて,周りの水準というか,乗っかっているパラダイムに依存しているところがあると思うわけです。

おそらく,「勉強ができる」ということを具体的に表現すると「テストの点数がいい」ってなことなんだろうけど,上のように考えると,テストっつのは歴史への適合度を計測するものさしなわけで,その時代における「生きやすさ」あるいは「生き延びる可能性の高さ」を測るモノなんだと思う。

しかしながら,「現に」生き延びるかっつのは,結局のところ事実=結果の問題なわけで,いくら上の物差しがいい値を示していたとしても,事実として「生きにくくなる」あるいは「生きられなくなる」ということはありうる。で,この事実と物差しうち,どちらが正しいのかといったら,当然,現に起きた「生きにくさ」の事実が結論として正しいということになる。

反対に,上の値が低かったとしても,事実として生きやすい環境を獲得できる人っつのもいる。で,そういう人がどう評価されるのかというと,「頭悪いけどたまたまいい環境を手に入れた人」と評価されるわけではない。その人は,「我々の気づかないいい頭を持っていたのだ」とかいった具合に,事後的に肯定されるんだと思うんです。「頭のよさ」という概念は,かなり節操のないところがあって,事実を簡単に事後承認してしまうところがある。

「頭のよさ」なる概念は,こうした節操のなさのおかげで,自分自身が決して傷つかない仕組みを手に入れている。しかし,これは反面,歴史的に見て成功しているあるいは生き延びている人を名指す機能しかないとも言える。「お前は頭がいい,したがって生き延びている」という命題と「お前は生き延びている,したがって頭がいい」という命題はともに真なわけで,要するにトートロジーなんだろう。

もちろん,生き延びる要素には,体力的な要素も深く関わっているので,一概に図式化することはできないと思うんですけどね。知的な部分に関する限り,上のように思うわけです。なんつか,なんなんだろうね。ぐにゃぐにゃ。

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