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「『すべて』国民は」ではなく「すべて『国民は』」

2009年01月12日

こちらの話から。

その上で思うのは、25条は「すべて国民は」と言っているのであり、「本当にまじめに働こうとしている国民は」などとは言っていない、ということです。「すべて」とは、本当に「すべて」であるはずです。うまく正規雇用につくことができず、住居も職も失ってしまった人々の中には、「本当にまじめに」やってた人達もいるでしょうが、そうでない人もいるでしょう。しかし「すべて」の人々に、人間らしく生きる権利がある。そう言わねばなりません。

すべて国民は - good2nd

上の話はその通りで,ちゃんと働いている人だけ生存権の主体になるっつのはおかしな話。タテマエとして。もっとも,派遣村が25条の憲法問題に解決されているのには,どういった経緯があったんだろうとは思う。あたしもこの話については,「生存!生存!」と言っていたわけだけれど,憲法にいわゆる「生存」ではなくて,生の意味(本当に生き死にの問題に関わるという意味)で使っていたのでした。good2nd さんがどうとかとかいった話ではなく,分かりやすく憲法問題に解決するプロセスをみると,プロ市民的だなと思う。誰がこの流れを作ったんだろう。

ちなみに,弾さんがよくわからない公共の福祉論を持ち出しているけれど,憲法解釈に関する限りこゆ解釈は弾さんの中だけの問題なので,考慮する必要はないんだと思う。

で,生存権の話。

引用に言うとおり,25条は「すべて国民は」としていて,これが問題になっているのでした。ただ,これ「すべて」が問題なんじゃなくて「国民は」が問題だったりする。つまり,全ての日本国民には生存権の保障があるけれども,外国人については生存権の主体になれないと。ここで,人権っつのは,人間である以上無条件に認められる権利のことをいうから,正確に言うと生存権は人権ではない(基本権と呼ばれたりする)。

で,これの何が微妙なのかというと,生存権なるもんがそもそも人権から格下げされてるもんで,体系的にあんまり強力な権利としては認識されていないってことだったりする。外国人に保障が及ばないというと,ナショナリスティックに「そんなの当たり前じゃんか!」と思う方もいるかもしれないけれど,反射的に日本国民も弱められた権利しか享受できないことになる。んなもんで,生存権保障の程度については,政府の裁量の余地も大きい(参照:朝日訴訟 - Wikipedia)。

個人的に,派遣村の問題を生存権の話に解決するスキームは,古典的なプログラム規定論に解決してしまう可能性があるので,あまり得策じゃない気がしていたりします(参照:プログラム規定説 - Wikipedia)。つか,そもそも,憲法とか出したらいけない気もする。

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