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科学的であることを判断することに科学性はあるかの話

2009年01月31日

ポパーとかちゃんと読んでないし,素朴に思っただけなんだけれども,Wikipedia の「疑似科学」の項を読んでてつらつらと。

日本語では、「科学ではない」ということをはっきりさせるために、ニセ科学あるいはエセ科学という語を用いる人もいるが、単に「科学でない」ということであるならば文字通り「非科学」という表現がある。

疑似科学 - Wikipedia

この説明は微妙だと思う。「ニセ科学」「エセ科学」といった言葉は,明らかに蔑視的な意味合いを含んでいるわけで,「『科学ではない』ということをはっきりさせるため」とかいった,政治中立的なニュアンスを強調しているわけではない。仮にこの説明でも政治中立的だという人がいるなら,「ニセ」や「エセ」といった言葉の意味を知らない,日本語がかわいそうな人だろう。

で,思うのは,「ニセ科学」や「エセ科学」,「擬似科学」といったものを定義ないし説明することが,科学的なのか,あるいは,科学的でなければならないのか,ということ。というのも,巷で「ニセ科学」や「エセ科学」を定義ないし説明する作法を見ていると,無理に政治的=価値的なニュアンスを薄めようとしているように見えるからです。あたしには,これが単純な表現の問題にとどまらない,科学(者)のアイデンティティに関わる言い回しに見えるわけ。

これはつまるところ,例えばポパーにいわゆる「反証可能性」なる要件が何を根拠にしているのか,ということでもある。科学性の要件として反証可能性を挙げることに,反証可能性は必要なのか,ということ。

あたしゃ法学系の出なので,ある種の要件なり条件なりが提示されたとき,それがどうして提示されたのか,どういった価値なり目的に基づいているのか,といったところが気になったりします。この点,以下の説明は微妙に怪しい。

しかし、この反証主義の理論は、100%の再現性を求めるため、1度でも反証された理論を認めないという欠陥がある。このため現在の科学哲学では主流の考え方ではない。たとえば、ポパーの元で学んだラカトシュ・イムレは、ハードコアの考え方を展開し、多少反証が出た場合も有効であるとした。

疑似科学 - Wikipedia

こういった,「多少反証が出た場合も有効である」という言説は,何の根拠もなしに提示されたわけじゃないのだと思います。しかし一方で,「『1度でも反証された理論を認めない』ことが不都合だから」とかいった根拠は,あまりにもアドホックだし,少なくとも「科学的」とは言えないだろう。

科学性を問題にする場面っつのには,インテリジェントデザイン論やら社会科学の科学性やらとかいった話があるわけだけれども,こうした場面は,そもそも政治的=価値的(ひいては感情的)なバックグラウンドが垣間見られたりします。それにもかかわらず,科学者によるメタ科学的な言説には,どうしても政治的=価値的な根拠に基づいた議論に「汚染」されることを忌避しているように見えるところがある。

科学の科学性がアドホックで政治的な根拠に基づいている,なんて認めてしまうことは,それ自身のアイデンティティに関わりうるわけで,価値的な言説を忌避する科学者の態度を説明するには十分なんじゃないかと思ったりします。本当に「原理的に」認められないのかはともかくとして。

メタ科学が科学的か怪しいといった話については,ソーカル事件の話が,行為の政治性のみならず,内容においても価値的あるいは自己言及的な言説に終始していることからも伺える。「科学的な作法に則っていないから科学じゃない」あるいは「科学じゃないから科学じゃない」という言説には,そもそも反証可能性があるのだろうか。科学の科学性を価値中立的に説明することはできないのだろうか。それとも,科学を説明することに科学的であることは必要ないのだろうか。

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5 パロディから生まれた真実
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1 分からないですねえ…

あたしゃ,個別のモノゴトが「ニセ科学」や「エセ科学」かっつことについてはどうでもいいんですけれど,それにまつわる科学者のみっともなさには,かなり興味があります。科学そのものについて議論を展開しているにもかかわらず,微妙なさじ加減で価値的でアドホックな議論に転落しうる。そして,転落しないように,価値的なニュアンスを無理にでも解毒しようとするみっともなさ(冒頭引用のように)。いい加減,知っておいた方がいいと思うのは,「ニセ科学を指摘すること」は科学ではなくメタ科学だということだったりする。「ニセ科学を指摘する人」には,科学者ではなくメタ科学者としての立ち位置が求められている。

その意味で,ソーカルの行為なり内容なりは,メタ科学の非科学性なり政治性なりをぶっちゃけちゃったからこそ,(一部に)支持されたんじゃないかとも思う。「オレが言いたくても言えなかったことを言ってくれた!」みたいな。『知の欺瞞』はポストモダン批判としてではなく,科学思想の本として読むのもまた一興かと。

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