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昨日読んでた本 - 『メノン』

2009年02月15日

客人、どうやら君には、ぼくが何か特別恵まれた人間にみえるらしいね。徳が教えられうるものか、それともどんな仕方でそなわるものなのか、そんなことを知っていると思ってくれるとは!だがぼくは、教えられるか教えられないかを知っているどころか、徳それ自体がそもそも何であるかということさえ、知らないのだよ。

『メノン』(プラトン,藤沢令夫,岩波文庫,1994年,p10)

この頃,「対話と知ること」について,ちとつらつらと考えるところがあって,久しぶりに『メノン』を読み返しました。『メノン』は,おなじみプラトンの著書。プラトンというと,なんだか難しそうな印象があるかもしれないけれど,会話が中心のいわゆる対話篇なので,取っ付きにくさはないと思います。

メノン (岩波文庫)
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本書のメノンというのは,人の名前で,ソクラテスの対話相手です。念のために注釈しておくと,『メノン』をはじめとして,プラトンが書いたものにプラトン自身が登場することはありません。プラトンのお師匠さんであるソクラテスの言動をプラトンが記した,とかいった形式で書かれているんです。つことで,『メノン』は,メノンとソクラテスの対話の様子をプラトンが書いたことになっています。

で,このメノンなんですけれど,ゴルギアスの教えを受けた,とてもおりこうさんなお子様なのでした。あたしの印象では,素直で謙虚なところはあるものの,頭の良さが先に立っちゃうタイプといったところ。ここでも,ほとんど天然で「徳は教えられるものなのか」といった話をソクラテスに持ち出したのでした。冒頭の引用は,メノンの問いに対するソクラテスの応答。ソクラテスは「知らない」んだそうです。

もっとも,ただ単に「俺は知らん」というだけなら,その時点で「『メノン』終了」なわけですけれど,大切なのは,ここから「対話」が始まることです。この「対話を通じて得られる知」が,(大げさに言うなら)人の知的活動においてとても重要なんじゃないだろうか。ちょっとまだ考え途中なので,何が重要なのか,なかなか言葉にできないんですが。

何を問題にしているのか,対比的にネット上の話を持ち出すと,「知っていることを教え合う」様子はよく見るものの,対話を通じてそこから新しいモノが生まれることは,あまりない気がします。やや古臭い言葉になってしまったけれども,「集合知」(collective intelligence)なる言葉も,静的な知識を寄せ集めて,統計的に解析しただけのものを意味するようになっている。つまり,知識の収集・分析においては,インターネットというインフラが最大限に活用されているものの,「知識」そのものはネットに依存しない,どこか別のところ(ネットの外部)からやってきている感じがするわけです。

そうして考えると,「ネットの知」なるもんも,これといって今までの知のあり方とさほど変わりがない。ネットは,コミュニカティブな媒体として認識されているけれど,そこから新しい知が生まれることは稀で,実際は大きくて静的な辞典や辞書の類とさほど変わりがないんじゃないだろうか。ま,それでもいいっちゃいんですが。

静的な知を信奉すると何が困るかというと,自分の理屈なり特定の価値観なりについて,自己言及が加速してしまうことなんだと思います。ネットがコミュニカティブな媒体であることとは逆説的に,議論についての議論(メタ議論)とか,特定の領域以外の議論を排斥する(オレと話したかったら「○○学」を基礎から勉強しろとか)傾向が強まっているように見える。こゆのを「島宇宙化」とかいうのか?

反面,「どんな議論も受け入れるべし」とかいったことも,有限な人間には無理な話です。無限の議論の可能性についてコミュニカティブな態度をとるのは,物理的に不可能。

この点で,個人的に参考になるんじゃないか,と思ってるのが『メノン』の議論です(戻ってきた)。冒頭引用の通り,ソクラテスは「徳が何なのか」あるいは「徳は教えられるものなのか」について,「知らない」という態度をとります。この「知らない」という態度が,非常に重要なんじゃないだろうか。

「知らない」という態度は,静的な知識に対する態度としては,よくないことのように見えます。けれど,まったく知らない(無限の)他者に向かう時の態度としては,極自然な態度のような気がする。そして,まさに「今この時点」において「対話」するあなたは,それがどんなによく知っている人であっても,「全き他者」なんじゃないだろうか。そこに,対話から生まれる知の可能性があるんじゃないだろうか。

ま,まだちと考え中なので,全くまとまっていないんですけど,とにかくそんな感じ。

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